12ステップにおける守破離
完成の域に達することは決してない
ビッグブックの第五章の87ページに、このような有名な文が載っています:
私たちは霊的な完成(perfection)をではなく、霊的な成長(progress)を求めているのである。1)
私たちの12ステップへの取り組みは、完成の域(perfection)に達することは決してなく、誰もが進歩・成長(progress)の途中にあるのです。
ジョー・マキューらも、こう述べています:
私たちが目指すのはスピリチュアルな完成ではなく、スピリチュアルな成長である。私たちは完全ではないし、完全になれるわけでもない。また、完全になれるかもしれないなどと期待するのもやめておいたほうがいい。2)
ゴールに達することができない以上、私たちは成長を続けていくしかありません。
では、私たちはどのように成長していけば良いのでしょうか? 僕はいろいろな人が12ステップで回復してく姿を見てきました。それと同時に、いろいろな人の回復が停滞する様子も見てきました。停滞はやがて後退を招き、せっかく回復の中で得たものを手放してしまう人たちも少なくありません。
どんな分野でも何かに習熟するためには繰り返し実践することが必要です。しかし、同じことを繰り返しているだけでは、やがて必ず停滞してしまいます。
停滞を避けるためには、新しいことにチャレンジするしかありません。しかし、次々新しいことに取り組んでいくだけでは(繰り返しによる習熟が起こらないので)、その人は結局何も身につけられずに終わります。
ですから成長のためには、繰り返しによる習熟と、新しいことへのチャレンジが、適度にミックスされる必要があるのです。そのことを説明してくれるのが、「守破離」という江戸時代から伝わる言葉でありましょう。
守破離
守破離 (しゅはり)とは、芸事や武術で、師匠から弟子が学んでいく三つの段階を表した言葉です。
戦国時代に千利休 (せんの りきゅう, 1522-1591)という茶人がいました。茶の湯 (茶道)は鎌倉時代から行われていたので、利休が創始者なのではありませんが、彼はわび茶 という茶道の新しい様式を完成させた人として知られています。わび茶とはそれまで大名の豪華な屋敷で中国製の磁器を用いて行われていた茶道を、粗末な作りの茶室で国産の陶器を使うように変え、その質素さのなかに美や趣を感じようという流儀です。
利休は著作を残していませんが、弟子や子孫が書いたものが多く現在まで伝わっています。『利休百首』もその一つで、利休の教えを分りやすく伝えるために和歌形式の100首にまとめたものです。その100番目が、
規矩作法守りつくして破るとも離るるとても 本を忘るな3)
となっています(規矩は手本のこと)。このなかに守・破・離が含まれています。
最初の守は、手本や作法を確実に身に付けて行く段階です。師匠の教えや自分の属する流派の「型」を忠実に「守り」、反復することでそれに習熟していきます。この「型」を身に付けることで、その次の段階に進むことができます。
次の破は、他の師匠や他の流派の教えを取り入れながら、より良い「型」を作っていく段階です。当然そこでは、それまでに身に付けた既存の型を「破る」ことになります――これを「型破り」と呼びます。
そして離は、自分の属する流派から「離れ」、独自の新しい「型」を作っていく段階です。このようにして新しい流派 が生まれることになります。
12ステップも、この守破離の考え方にもとづいて、習熟の段階を説明することができます。
「型」の必要性
2002年ごろ、僕はアメリカ帰りのAAメンバーから、「スポンサーシップはビッグブックをスポンサーとスポンシーで読み合わせて行うものだ」という話を聞きました。だが、それ以上の詳しいことは聞かないまま、「ともかく自分でもやってみよう」と思いました。なにしろ「一にも行動、二にも行動」(p.127)なのですから、ともかく実践あるのみです。
そこで、当時のスポンシーに声をかけて、ビッグブックの読み合わせを始めました。ところが、それはわずか数ページ進んだところで中止になってしまいました。二人ともビッグブックを読んでも「さっぱり分らなかったから」というのがその理由でした。
本を読んで実践するのはそれほど容易いことではありません。まして、ビッグブックは手取り足取り教えてくれるような親切なテキストではありません。
僕にとって幸いだったのは、2003年ごろから日本のAAのなかでビッグブック・ムーブメントとでも呼ぶべき運動が始まったことでした。その中心は BIG FOOT(ビッグフット)というビギナーズ・ミーティングでした。BIG FOOT はワリー・P(Wally P., 1945-)が作った Back to Basics(バック・トゥ・ベーシックス)というフォーマットを参考に日本のAAメンバーが作ったフォーマットでした。
ビッグフットも、バック・トゥ・ベーシックスも、まさに「型」そのものです。どちらも、ミーティングではスクリプト(台本)を読み進めていきます。スクリプトはビッグブックからの抜き書き部分と、その抜き書きの解説から成り立っています。参加者がこれを読み上げていくことで、例えばステップ1の無力の意味や、ステップ4では何を棚卸しするのかなどを理解することができます。途中でスポンサー・スポンシーのペアを組んでの棚卸しなども行いながら、4回のミーティングで12ステップ全体をカバーできるようになっています。そして、この4回のミーティングが終わればまた最初に戻って同じことを繰り返します。
つまり同じことを徹底して繰り返していくという点で、これは「守」そのものです。このビッグフットは様々な批判を浴びましたが、最大の批判は「12ステップは何年もかかって成し遂げるもので、たった4回のミーティングでステップができるわけがない」というものでした。しかし実際には、それまで何年も12ステップのことを知ろうとしても分らなかったのに、ビッグフットで初めて12ステップを掴むことができた、という人が多かったのです。
このように「型」を作ることによって、12ステップに入門しやすくなり、「型」を繰り返して習熟することで、理解と実践を深めていくことが可能になったのです。
僕にとっての「守」
僕はビッグフットに何度か参加したものの、ひたすら反復するほどそれにのめり込むことはできませんでした。しかし、同じ時期に A Program For You という本に出会いました。これはジョー・マキューらの『プログラム フォー ユー』の原書ですが、当時はジョー・マキューのことは何も知らず、単にビッグブックの解説書が欲しくて入手したものでした。(cf. 「ジョーとチャーリーについて (1) Big Book Comes Alive!」)
2007年以降、ジョーの『ビッグブックのスポンサーシップ』などの著作が日本語に訳出されると、彼の本を使ったミーティングが全国各地で開かれるようになり、僕も長野でジョーの本の勉強会を開くようになりました。また、ジョー・マキューとチャーリー・Pという二人のAAメンバーが行っていた Big Book Comes Alive というセミナーの録音のテープ起こしを入手し、それを読み込むようになりました。
さらには、ジョーが回復施設向けに作ったリカバリー・ダイナミクスというプログラムを日本の施設に導入する活動が2010年から始まり、僕もいつの間にかそれに巻き込まれて、翌年からは副業として、さらに数年後には本業としてそれに取り組むことになりました。(cf. 「ジョーとチャーリーについて (2) リカバリー・ダイナミクス」)
そんなわけで僕は、AAメンバーとしてはジョーとチャーリーの、職業人としてはリカバリー・ダイナミクスのプログラムを身に付けることに集中することになりました。その時の僕の目標は、ジョーたちの考えを正確に掴み取り、それを他の人たちに正確に伝えるということでした。そんなわけで、2007年から10年間ぐらいが、僕にとっての「守」の時期だったと言えるでしょう。そして、その時期が終わるとほぼ同時に援助職の仕事を辞めたのは偶然とは言い切れません。
リカバリー・ダイナミクスは明確なフォーマットがあり、それが「型」であることがはっきりしています。それに比べるとジョーの書籍の12ステップの説明は固定されたフォーマットを持っていません。それでも、それに従って12ステップに取り組んだ人の話を聞くだけで、それがジョーのステップであることが聞き手に分る程度の形式を備えているので、それも一つの「型」だと言えましょう。
前回の連載「ビッグブックのスタディ」は、ジョーの12ステップを下敷きにしつつ、21世紀の日本で12ステップに取り組む人たちに必要な情報を加えて全体を整理したという点で、僕にとっての「破」にあたるものだと思っています。つまり僕もまだ「離」というところまでには達せていないという自己認識です。
形無しになってはいけない
このように、「型」といっても、バック・トゥ・ベーシックスやリカバリー・ダイナミクスのような明確なフォーマットを持っているものだけでなく、ジョーの本に解説されているようなステップも一つの「型」だと言えます。またオールド・スクール 的マックにおける「ステップ1・2・3の繰り返し」も一つの「型」だと言えます。また、どんな形式のものであれ、師であるスポンサーから伝えられたステップは、スポンシーにとっては一つの「型」なのでありましょう。
大切なことは、どれでも良いので、自分に合った一つの「型」を選んで、その「型」を確実に身に付けることです。なかなか相性の良いスポンサーが見つからないとか、自分にあったやり方が見つからずに漂い続ける時期が必要なこともありますし、時にはその漂流が長く続く人もいます。しかし、順調に回復する人は、どこかで一つの「型」を選び取って、それを確実に身に付ける努力をしているものです。
その一つを選び取るときには、「もっと探し続ければ、より自分にふさわしい何かが見つかるかもしれない」という迷いも当然生じるでしょう。ですが、選び取るためには「とりあえずこれでいいや」という妥協も必要です。
「型があるから型破り、型が無ければ形無し」と言ったのは、歌舞伎役者の中村勘三郎(1955-2012)だそうです。何一つ「型」が身についていないところから自分のオリジナルを作り出そうとしても、まったく「型」にならないグズグズのものしかできあがりません。
ところで私たちが一つの「型」を身に付けるためには、自分がスポンサーとなってその「型」をスポンシーに伝えていかなければなりません(ステップ12)。「自分はスポンサーから渡されたものしかスポンシーに渡せません」と言う人がいますが、実際のところはその人はスポンサーから渡された「型」すらまだまだ十分に身についておらず、それを身に付けるために「誰かにこれを渡させてください」という段階なのです。
そのようにして、一つの「型」を身に付けるために頑張っている人が、他の流派の人の話を聞いたり本を読んだりするのは良いことでありましょう。違いを意識することで自分の流派の特徴を理解することができますし、いつかやって来るだろう「破」の時期のために違うやり方を知ることは必要だからです。しかし、特定の「型」を身に付ける努力をしていない人が、いろんな流派の情報を漁るようにして集めているのは好ましいこととは言えません。僕はこういうタイプの人を「情報くれくれ君」と呼んでいますが、彼らは結局形無しにしかならないからです。
一つの型を反復して身に付けることによって、基本が身につきます。基礎ができていない人が応用を行ったりとか、自分なりのものを作り出そうとしても、他の人の役に立つものは作れません。形無しは役立たずなのです。
模倣がゴールになってはいけない
「守」の時期は言わば模倣 の時期です。何らかのフォーマットやスポンサーを一つのモデルとして、同じことができるようになることを目指すわけです。繰り返すことで習熟が進んでいきます。
しかし、いつまでも同じ「型」を繰り返すことが12ステップの目的ではありません。模倣はスタートラインに着き、そこから出発するために行うことです。それは次の「破」の段階に進むためのサナギの時期だとも言えます。
ところがこの「守」の段階に留まってしまう人が少なくありません。彼らにとっては模倣がゴールになってしまっているのです。
例えば施設で身に付けたプログラムを、施設を出た後もある程度の期間続けていくことは必要でありましょう(それがリカバリー・ダイナミクスであれ、ステップ1・2・3の繰り返しであれ同じことです)。まだまだ反復による習熟が必要な時期なのですから。しかし、5年経っても、10年経っても、同じことしかやっていないのでは、その人は必ず停滞してしまいます。そして前に述べたように、停滞は後退を招き、それまでに得たものも次第に失っていきます。なによりも、模倣だけでは人生の変化に対応できるようにはなれません。「スポンサーから渡されたものしか渡せません」と言っていられる時期は、実はそれほど長くは続かないのです。どこかで、別のことを学び、スポンサーの教えを破っていくことが求められます。
同じことを続ければ飽きてくるのは当然です。あまり早く飽きてしまっては何も身につきませんが、12ステップは人が同じところに留まることを許してはくれないのです。人間に「飽きる」という機能が備わっているのは、新しいことに取り組めるように神様がそれを与えてくれたからでありましょう。
僕がバック・トゥ・ベーシックスの仕掛け人でありながらも、何年もバック・トゥ・ベーシックスをやっている人に対して、「いつまでバック・トゥ・ベーシックスやっとるんじゃい! そろそろ新しいことをやらんかい!」と発破を掛けるのも、このプログラムが悪いと言っているからではありません。マンネリと停滞の中で、やがてその人の回復の後退が始まるからです。何かに習熟し、その習熟によって他のメンバーと自分との差別化を図ろうなどと考えているようでは停滞間違い無しです。
このように、最初に何を選び取ろうとも、必ず「破」や「離」の時期は訪れます(訪れなければならないのです)。であるならば、最初に何を選ぶかはそれほど重要ではなくなります。最初の選択の時に「とりあえずこれでいいや」という妥協も必要だと言ったのはそのためです。
「いま自分が努力して身に付けようとしているこれも、いつか捨てるときが来るかもしれない」という覚悟が学びには必要なのです。
ワークブック=「型」
1990年代以降、いくつかの12ステップ共同体が、12ステップのワークブックを出版するようになりました。ワークブックが流行するようになった理由は断言できませんが、おそらく1970年代から80年代にかけてアメリカでアディクションの回復施設が隆盛したときに施設でワークブックを用いた影響だと思われます。例えばリカバリー・ダイナミクスにもクライアント向けのワークブックが用意されています(Client Guidebook)。
どんな共同体がどんなワークブックを出版しているか少し紹介しましょう。
NAには『ステップワーキングガイド』というワークブックがあります(原著は1998年、日本語訳は2012年)。この本は各ステップの基本的な説明にページを割いているおかげで、ワークブックとしてかなり厚くなっています(A4版で172ページある)。ステップごとに質問項目があり、その答えを記入したり、指示に従って行動することでステップに取り組めるようになっています。
OAには The Twelve-Step Workbook of Overeaters Anonymousがあります(初版は1992年、第二版は2018年、未訳)。このワークブックは質問項目しか書かれていませんが、各質問項目には『オーバーイーターズ・アノニマスの12のステップと12の伝統』のページ番号が添えられていて、該当部分を読んで質問に答えていくようになっています。電子書籍版もあって、PDFの記入欄に書き込めるようになっています。
僕のような「本を読むと回復しない」という言説に逆らって回復した世代にとっては、パソコンでPDFファイルを開いてステップワークに取り組む、しかもそれが共同体の公式なテキストとして提供される時代になったということには隔世の感があります。
第10回で紹介したSLAAには The Step Questions Workbook というワークブックがあり、『12ステップワークブック』というタイトルで訳出されているそうです。
第13回で紹介したSCAは SCA Step Workbook を出版しています。これもOAのワークブックと同様に質問項目が並んでいて、PDFの記入欄に書き込めるようになっています。
第19回で紹介した再建後のACA(ACoA)の『ACAフェローシップテキスト』は、基本テキストでもあると同時にワークブックにもなっています。各ステップには、ステップの解説とともに、そのステップについてのメンバーの経験の分かち合いが載っており、さらに質問項目や、作業の指示が続いています。ACoAはそれだけでなく、この本から12ステップの部分だけを抜き出して、質問項目を増やした『アダルトチルドレンの12ステップ ステップワークブック』を出しています(原著2007年、日本語版は2022年)。
このようにして各共同体とも12ステップのワークブックが大流行中なのです。一方で、AAは公式なワークブックを作ることを頑なに拒んでいます。その理由はともかく、AAには公式の12ステップワークブックがないおかげで、AAメンバーが自由にそれを作り出すことができ、それによってAAには様々なフォーマットが存在することになりました(バック・トゥ・ベーシックスもその一例です)。
僕はそのようなワークブックを基本的には肯定的に評価しています。バック・トゥ・ベーシックスであれ、リカバリー・ダイナミクスであれ、フォーマット化された12ステップを推進してきた側の人間である僕がワークブックに対して否定的であるはずがありません。やはり「型」があったほうが、取り組みやすいのは確かです。
つまるところ、12ステップ共同体は(AAもAA以外も)ワークブックやフォーマットを使って12ステップに取り組む時代を迎えているのです。そうなるには、それなりの理由があります。
子供の頃のことを思い出していただきたいのですが、小学校や中学校で、先生の都合で授業が自習になることがあったはずです。そんなときに、自習用のプリントが配られれば、皆がそれに取り組みました(自習の時間の後でそれを提出しなければなりませんからね)。しかし、先生が忙しすぎて自習プリントが用意できておらず「各自で自習」などという指示がされた場合には、自分で勉強している生徒は一握りだけで、残りの多くは何をして良いのか自分で決められずに所在なく自習の時間が終わるのを待っているだけ、ということになってしまうものでした。そしてそのうち雑談を始める生徒が出始め、それにキレた学級委員長が注意すると、ますますガヤガヤし始めて・・。
話を本筋に戻しまして、現実のAAはこの「各自で自習」の指示が出ている自習の時間みたいなもので、自分でステップに取り組んでいる人は一握りだけで、他のメンバーは何をして良いか分らずぼうっとしている、ということにすぐになってしまうのです。ですから、ワークブックやフォーマットはそんな状況を改善するのに役立ちます。
もちろん、ワークブックを一回やっただけで12ステップが十分身につくということはあり得ません。自分でも何度も取り組む必要があるでしょうし、ワークブックを使ってスポンシーにステップを伝えることを繰り返して、ようやく身についていくものです。12ステップは一人で取り組むことはできず、必ず相手が必要なのです。ワークブックがあってもその点は変わりません。
そしてもちろん、ワークブックは「型」ですから、ワークブックに取り組んでいる期間は「守」の段階です。いつまでもサナギの段階に留まるわけにはいきません。いつかは、ワークブックから離れ、他の12ステップのやり方を学んで取り入れていく時期が来なければなりません。
本を忘るな
「破」や「離」の時期になれば、「守」の時期に身に付けたものを捨てていくことになります。とは言え、捨ててはならないものもあります。『利休百首』に「本を忘るな」とあったのがそれです。この「本」とは基本・根本です。そもそも基本・根本を身に付けるための「守」の時期だったのですから、それを捨ててしまったのでは苦労した意味がありません。
では、12ステップの根本とは何でしょうか? 私たちは自分では解決できない問題を抱えて12ステップに取り組み始めます(それがステップ1の「無力」です)。しかし、努力して12ステップに取り組んでも、その問題を自分で解決できるようにはなりません。「自分を越えた何らかの存在」が、自分に代わってそれを解決してくれるのです。人々はその存在をハイヤー・パワーや神と呼びます。
「守」の時期を通じて「型」を身に付ける目的は、この12ステップの根本を体験することです。その体験を経れば、12ステップの具体的なやり方などは「どうでもいいこと」(BB, p.73)であることが理解できるでしょう。なぜなら「代わりに解決してもらう」という体験こそが最も重要であり、そこに至る道筋へのこだわりがなくなるからです。そうしてようやく、根本を押さえつつ形にとらわれずに新しいものを作り出すことができるようになるのです。
この「代わりに解決してもらう」という根本を得ないまま、「型」を変えることに熱意を傾けても意味はありません。幼虫はいきなり蝶にはなれません。必ずサナギの時期を経る必要があります。回復も同じです。なのにいきなり成虫になろうとする人が少なくありません。サナギの殻が割れたとき、中からはきれいな羽をもった蝶が出てきますが、幼虫の背中が割れても中から出てくるのはドロドロとした体液だけです。その体液を喜んで受け取る人はいないでしょう。
永遠の未完
ワークブックやフォーマットは明確な「型」を持っています。しかし、実はその「型」はやがて捨て去られる運命にあります。しかし「型」を身に付けることをスキップして根本を体得することはできません。だがいったん根本を得たならば、目の前のスポンシーもやがて自分の教えたことを捨てていくでしょう。それを成長だと喜べることが、スポンサーとしての成長なのだと思います。逆に、スポンサーから十分に得たと満足したスポンシーたちは、だいたいダメになってしまうものです。なぜなら彼らは自分が完成の域に達したと勘違いして、やがて後退を始めるからです。
12ステップに取り組む以上、いつまでも未完に留まらざるを得ません。それが「完成をではなく成長を求める」の意味です。しかしその未完にも守・破・離の三つの段階があるのです。
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