12ステップのスタディ (35) ステップ2全般

さて今回からステップ2に入ります。その準備をしていて、僕はあることに気がついて愕然としました。これまでAA・NA・OA・性・AC(共依存)という各共同体の成立の歴史と、それぞれのステップ1の説明をしてきました。当然、各共同体の歴史はそれぞれに違いますし、ステップ1の構造は同じでも、各共同体は対象としている病気が違いますから、AA→NA→OA→性→AC(共依存)とステップ1の説明を繰り返しても、まったく同じ説明にはなりませんでした。

しかし、ステップ2から先は、どこの共同体のステップも同じです。となると、今後の連載はAA→NA→OA→性→AC(共依存)とまったく同じ説明を5回繰り返すことになります。参照するテキストが違っているだけで、「ほらテキストが違ってもビッグブックと同じことを言っているでしょう? ○○のステップはAAのステップとまったく同じなんですよ」ということを示してみせるだけです。

さすがに5回も同じ説明を繰り返されたら、読んでいる方は飽きるでしょう。けれど、それ以上に書いている僕が飽きるはずです。ですから、これから先の連載は僕がいかにマンネリズムに耐えられるかにかかっているわけです。しかもまだステップが11も残っているのですから、先が思いやられます。

何を信じるのか?

ステップ2は、どこの共同体でも「自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった」となっています。AAの古い日本語訳では、「自分を超えた大きな力」が「自分より偉大な力」と訳されており、また「健康な心」も「正気」と訳されていました。これらは訳文が変わっただけですから、意味は同じです。

この「自分を超えた大きな力」は、ステップ3になると「自分なりに理解した神」と表現が変わります。神という言葉がでてくるために、ステップ2で神を信じることを要求されている、と解釈してしまう人は少なくありません。

そのように解釈してしまうと、ステップ2は「神を信じるか・信じないか」という選択を迫るものになってしまいます。神を信じることを要求するなんて、AA(や他の共同体)は「宗教ではない」と言いながら、実は宗教なのではないか? という疑いが生じてきます。

From AERA digital

世の中には、宗教ではないフリをして近づいてくるカルト 団体がいくつもあります。特に各地の大学でスポーツやボランティアや国際交流のサークルを装って新入生を勧誘し、参加した人を巧みにマインドコントロールして取り込むという手口が横行しています。宗教団体だけでなく、特定の思想を持つ政治団体も同じ手法を使っており、宗教信条と政治思想の間に類似性があることがわかります。各大学ではそういった宗教団体や政治集団の活動に神経をとがらせて注意喚起をしていますが、ひっかかる学生は後を絶ちません。それに比べると駅前で神の救いを説いている人たちは、なんてバカ正直なんでしょう・・・。それはともかく、危ない連中は正体を隠して近づいてくるものですから、政治と宗教には関わらないように警戒するのが一番安全です。そのことを知っている人たちは、神という存在が見え隠れするAA(や他の12ステップ共同体)に、「怪しい」「危なそう」という印象を持って当然なのです。

けれど、だからこそ、そういった誤解を解くためにAAや他の12ステップ共同体は、「私たちは何かを信じることをあなたに要求しない」と表明しています。12のステップは提案にすぎません。信じるも信じないもあなたの自由意志にまかされているのです。1)

神を信じることは要求していない

ではステップ2は何を要求しているのでしょうか? 少なくとも「神を信じること」は要求していません。

宗教は神を信じることを要求します。この神は人格神(人間のような意志や感情を持った神)であるとは限りません。宇宙全体を統一する法則のようなものがあると考える宗教もあります汎神観

どのような神概念を使っているにせよ、宗教は「うちの神様はこういう神様です」という神の定義を必ず持っています。それは仏教も神道も例外ではありません。宗教の信徒になるということは、その宗教の神の定義を受け入れるということであり、それをより深く理解するために学んでいくことでもあります。

けれどAA(や他の12ステップ共同体)は「神を定義する必要はない」と明言します。2) 必要が無いというよりも、定義できないのです。

なので、AAのミーティングに参加して、AAメンバーに「AAの本に出てくる神は、どんな神なのですか?」と質問しても、誰も答えてくれません。なぜならAAは宗教と違って神の定義がありませんから、誰にも答えようがないからです。

けれど、ステップ2は「信じる」ことを要求しています。いったい何を信じれば良いのでしょうか?

私を正気に戻してくれる

ここでいったん神や力という言葉から離れて、ステップ2の他の部分に目を向けましょう。「私たちを健康な心(あるいは正気)に戻してくれる」という言葉は何を意味しているのでしょうか?

「健康な心」も「正気」も sanity の翻訳ですから、同じ意味です。ステップ2は私たちの心(=精神)にはどこかしら正気ではない部分があると言っています。

「あなたは狂っている」とか「あなたは正気ではない」とか、あるいは「あなたの精神は健康ではない」と言われると、ドキッとすると同時に、嫌な気分になるものです。なぜなら人間は誰でも「自分は正気である」と思いたい性質を持っているからです。確かに現代社会はかなりストレスフルですから、精神が常に100%健康という人は滅多におらず、誰もが多少メンタルを病むこともあるでしょう。それでも概ねにおいては自分の精神は健康だと人々は思っています。

ところが、ステップ2は「あなたの精神は狂ってますよね」というストレートパンチを放ってくるのです。これは「神」という怪しげな言葉よりも、読み飛ばしたくなる言葉です。

けれど、ステップ1を済ませた人は、自分の精神には致命的な欠陥があることを認めたはずです。それは強迫観念(オブセッション)と呼ばれるもので、アルコホーリクに最初の一杯を飲ませる狂気でした。NAの場合にはアディクトに最初の一回のクスリを使わせる狂気であり、OAの場合にはオーバーイーターを過食へと踏み出させてしまう狂気であり、性の問題の場合にもAA・NA・OAと同様にスリップをもたらす狂気のことでした。また、AC(共依存)の場合には、他者をコントロールしたくなってしまう(あるいはコントロールすることが正しいと思えてしまう)狂気でした。

その狂気に対して、自分は無力であり、自力ではそれを防ぐことができないと認めるのがステップ1でした。だから、ステップ1で無力を認めた人は、「あなたの精神は狂ってますよね」とステップ2で指摘されたときに、「確かにその通りだ。私の精神の全部ではないが、一部分は致命的に狂っている」と認めることができるはずです。

その狂気(強迫観念)は、意志の力を使うことや同じ問題を抱えた人たちとのミーティングに参加することで、ある程度は抑えることができますが、それにも限界があることを前回説明しました。その狂気は私たちの中で、虎視眈々(こしたんたん)と出番を狙っています。そして、その狂気が表面に出てきたとき、私たちはそれにあらがえずに、あっさりとスリップしてしまいます。これはなんとも恐ろしい現実ではありませんか!

だから私たちは、精神病院や刑務所や墓場に行かずに娑婆(しゃば)で自由に暮らすためには、自分以外の何かにこの狂気を解決してもらわなければなりません。私たちは「健康な心(正気)に戻してもらう」必要があるのです。

ですから、この部分までは、ステップ1→ステップ2と順番にやれば、特に難しいことはありません。

自分以外の何かに解決してもらう

そして、自分で解決できないことは、自分以外の誰かに解決してもらうしかありません。

しかし、僕もそうでしたが、多くの人は「何とかして自分で解決したい」という願望を捨てられません。そして、12ステップを「自分で解決できるようになるための手段」だと勘違いします。しかしながら、12ステップは決して自分で解決できるようになるための手段では

おそらく私たちに人間には、自分が無力であることを嫌う性質があるのでしょう。無力を嫌う性質があるからこそ、私たちはステップ1で自分が無力だという現実を受け入れることが難しかったのです。ようやくその否認を乗り越えて自分の無力さを認めても、無力の状態でいることが落ち着かず、なんとかその状態から脱したい、つまり「力を得たい」と思ってしまうものなのです。

ステップ1で無力を認めるだけでなく、それを認め続けなければならないとよく言われます。酒やクスリがやめ続けられていることで、もう自分は無力ではなくなった、もう問題は解決したのだから安心だという勘違いがしばしば起きてしまいます。けれど自分の中からアディクションという病気が消え去ったわけではありません。私たちは自分の病気に対して無力だという現実を忘れてはいけませんし、例え12ステップによって解決を手に入れたとしても、それはハイヤーパワーに解決してもらっただけであり、自分自身は無力のままなのです。

自分で解決できないことを、他の誰かに解決してもらうのは恥ずかしいことではありません。私たちはしょっちゅうそういうことをしています。例えば、自動車のエンジンが壊れたときには、車を修理工場に持ち込むでしょう。テレビが壊れたら、テレビを修理に出すでしょう。修理工場には修理の専門家がいて、あなたにはできない修理を施してくれます(解決)。虫歯になれば歯医者に行くでしょう。歯科医はあなた自身ではできない治療を行って、虫歯を治してくれます(解決)。自分の歯を治すために歯医者になろうと思う人はいません。

私たちの場合、壊れてしまったのは自分自身の精神です。それを自分では治せません。だから、それを治せる専門家を必要としているのです。残念なことに精神医学や心理学ではそれは無理だとシルクワース先生や、ユング先生が明言しています。3)

だから私たちは「人間ではない何か」を頼るほかありません。

ところで、自動車の修理工場や歯医者は電話帳に載っていますし、ネットで検索すれば近所にあるものを見つけることができます。電話をして予約を取ることもできます。また、自動車や家電を修理工場で修理してもらったり、虫歯を歯医者で治療してもらった経験を持った人たちが、私たちの周りにはたくさんいるので、自分も同じことをすれば解決できることを納得しやすいのです。

その一方で、自分で解決できないことをハイヤーパワーや神様に解決してもらった、という経験はありふれてはいません。少なくとも現代の日本社会では「私は神に救われた」と公言する人は宗教に熱心な人ぐらいしかいません。

メリトクラシー社会のなかで

そもそも現在の日本社会は、メリトクラシー (能力主義)が支配的になっています。これは人が持っている能力に応じて社会的地位や権力が分配されるべきだという思想です。メリトクラシー社会では、高い能力を身につけることで、社会的成功や経済的成功が手に入ることになります。学歴が重視されるのもその一環です。そんな社会の中で生きていれば、誰だって能力はないよりもあった方が良いと考えるでしょうし、能力が無い人と見なされるよりも、高い能力を持った人と見られることを望むようになります。

僕は資格を取るために社会福祉の勉強をしたことがありますが、社会福祉でも、人のストレングス(すなわち能力)を伸ばすことを良しとしています。現在では社会福祉でさえメリトクラシー思想に染まっているのです。

そのような流れに逆らって、自分が無力であることを認め続け、無力の状態に留まろうとし続けることは、確かに難しいことです。(つまり私たちがメリトクラシー社会に住んでいることが、ステップ1を難しくしている)。

また、自分では解決できなかったことを人間ではない何か(例えば神)に解決してもらった、というメッセージを発すると、自分の無能さをアピールしていると受け取られる可能性があります。そのような、能力主義に反するメッセージを発したいと思う人は少ないはずです。(それは、私たちがステップ12で回復のメッセージを運ぼうとしても、無意識のうちにメッセージを能力主義に会わせて歪めてしまうことを意味します)。

結果として、12ステップに取り組もうとする人の周囲には「自分を超えた力が、私を正気に戻してくれた」という経験をメッセージを発してくれる人が滅多にいない、ということになります。だから、自分も同じように「大きな力に解決してもらおう」と考える人もなかなか出てこないのです。それがステップ2の難しさを作り出しています。

ですから、これからステップ2に取り組もうとしている人を効果的に手助けするためには、(特にスポンサーは)「私の問題は自分では解決できなかったが、ハイヤーパワーが解決してくれたのだ」と、スポンシーに対してきっぱりと宣言する必要があります。

「自分の問題も解決してもらえる」ことを信じる

この世の中にはアディクションの問題を神に解決してもらった人たちが(数は少ないけれど)存在しています。まず、そのことを信じる必要があります。それを信じると、「自分の問題も神に解決してもらえるのではないか」、という期待が生じます。

例えばあなたの友人が映画を観に行って、その映画が大変面白く、楽しめたという感想を聞かせてくれたとしましょう。するとあなたは、自分もその映画を観たいと思うでしょう。なぜなら、自分も楽しい経験をしたいと思うからです。このように「他の人の持っている良いものを、自分も欲しいと思う気持ち」がステップ2の根底にあります。だから、「私のアディクションの問題も神に解決してもらいたい」という素直な願いを持つことが大切なのです。

しかし多くの人は、自分の気持ちに素直に従うことができません。というのも、神による救いなんて起こるはずがない、という決めつけをしているからです。それは、友人の「面白かった」という映画の感想に対して、「そんな映画が面白いはずがない」と決めつけてしまう態度と同じで、とても偏狭な姿勢です。これを「心が閉じているクローズド・マインド」と呼びます。

回復するためには「開かれた心(オープン・マインド)」が必要だと、どの12ステップの本でも強調しています。「調べもしないで頭から軽蔑する」BB, p.268/572)という偏見に満ちた態度を捨てて、「神が私を助けてくれる、ということもあり得るかもしれない」と考え直してみることが「心を開く」ということなのです。

いまの日本の12ステップ共同体では、「私のアディクションの問題はハイヤーパワーが解決してくれました」と明言する人はとても少数ですし、あなたのスポンサーですらそれが言えない人だという可能性もあります(霊的目覚めをまだ得ていない人がスポンサーをしている場合)。だから、そういう体験を文字を通じてしか知ることができない、という不利な環境に置かれている人が大半です。

けれども、あなたはその不利を押しのけて、「私のアディクションの問題もハイヤーパワーに解決してもらいたい」と願わなくてはなりません。なぜなら、それがステップ2で要求されていることのすべてだからです。

神の概念

このようにしてステップ2をすませると、自分が一つの選択をしたことに気がつくはずです。つまり、神と呼ばれる「何か」が自分のアディクションの問題を解決してくれることを信じたということは、どこかにその「何か」が存在していることを信じるようになったということです。

ステップ2の段階では、その「何か」が何なのかはまるで分かりませんし、分かる必要もないとされています。でも、その「何か」は存在してくれなくちゃ困るわけです。存在しないものに自分の問題を解決してもらうことはできませんから。

ビッグブックには「神が存在するかしないか。私たちはどちらを選ぶのか」という問いが書かれていますが(p.78)、私たちはステップ2に取り組んでいるうちに、自然に「神は存在する」ほうを選んでいるのです。

Image Creater にて作成

この状態の私たちは、同級生たちが次々に恋人を作っているせいで、自分も恋をしたいと願いながらも、まだ好きな人が見つからないティーンエイジャーみたいなものです。自分の将来の恋人はどんな人なんだろう・・優しい人だったら良いなとか、おっぱいの大きい人が良いなとか・・いろいろと想像をたくましくしている状態です。この状態の人の頭のなかは「自分の恋人」という概念が形づくられつつあります。

将来恋人ができたとき、それは頭の中で作り上げてきた「恋人の概念」とはかけ離れた人になるかもしれませんが、実際に恋人ができることで頭の中の「恋人の概念」と「実際の恋人」が一致することになります。ですが、実際に恋人ができるまでは、頭の中の「恋人の概念」を使って恋愛というものを理解するしかありません。

from 馬場康誌『ライドンキング』via アル

12ステップに取り組む私たちも同じで、「自分を助けてくれる神様って、どんな神様なんだろう」といろんな想像をします。それによって私たちは「神の概念」を頭の中で作り上げます。そして実際にハイヤーパワーと出会えたときに「思ってたのと違う」という驚きもあるかもしれませんが、ともかく神との関係ができあがっていく過程で、その人の「神の概念」と実際のハイヤーパワーが次第に一致していきます。それまでは、頭の中の「神の概念」を使って神との関係というものを理解するしかありません。

このように私たちはステップ2に取り組むことで、何らかの「神の概念」を持つようになります。宗教と違って、AA(や他の12ステップ共同体)は神の概念を提供してくれませんから、それを自分で選び取るしかありません。

神の概念はどんなものでも良い・・がしかし

この「神の概念」は基本的に「どんなものであってもよい」とされていますBB, pp.68-69)。これは本当に「何でも良い」のであって、特に宗教的なものである必要はありません。それを神と呼ぶ必要すら無く、何と呼んでもかまいません。ただ全員に共通した呼称もないと不便なので、便宜的に「神」と呼んでいるに過ぎません。それに宗教的な意味合いを持たせる意図はありません。

ただし、実際にはこれまで述べてきたことからいくつかの限定条件があることがわかります。その条件を無視して自分なりの「神の概念」を作り上げてもオーケーですが、確実に遠回りをすることになります。不適切な神の概念を選んだために、5年・10年あるいはもっと長い期間にわたって回復の遠回りをする人が珍しくないので、ここでは老婆心ながら、その条件をお伝えしておきましょう。

一つは、「ハイヤーパワーは自分自身ではない」ということです。自分を超えた存在なのですから、自分ではないのは当然です。また、同じように、自分の意志、自分の努力、哲学、道徳、生きる目標、善意などの「自分に由来した力」というわけにもいきません。神は「自分ではない何か」でなくてはならないのです。たまに、「インナーチャイルドが私のハイヤーパワーです」と言っているACの人がいますが、インナーチャイルドは自分自身なのですから、それは「理想の恋人は自分自身です」と言っているのと同じで、とってもナルシスト な発言になってしまいます。

もう一つは、「ハイヤーパワーは何らかの意味で自分より上の存在」でなくてはなりません。なぜなら、私たちは自分で自分の問題を解決できないのに、その力には解決できるのですから、少なくともその力は「自分より上」です。自分と同等であったり、自分以下の者をハイヤーパワーに選ぶことはできません。

このように自明な条件があるものの、基本的にはどのような神の概念を選ぼうともその人の自由です。それは、どのような「理想の恋人像」を作り上げようとその人の勝手であって、他の人が口出しすべきでないのと同じことです。

ステップ2の原動力

このように、ステップ2は、恋人ができた友だちからのろけ話を聞かされて面白くなく、「ああ早く自分も恋人が欲しい」と思うのと同じ気持ちが原動力になっています。自分のプライドや意地にしがみつかずに、「神に助けてもらいたい」という自分の気持ちに素直に従えば良いだけなので、特に難しいことはありません。

ステップ2に困難を感じるのは、ステップ1で無力を十分に認めていない場合と、ステップ2で何を信じるのかを誤解している場合のどちらか(あるいは両方)なのでしょう。

今回のまとめ
  • ステップ2は神を信じることを求めていない。
  • ステップ1に取り組んだ人は、自分の精神が正気ではない(強迫観念がある)ことを認めている。
  • だからステップ2で「正気に戻してもらう必要」を認めるのは難しくない。
  • ステップ2では、(それが何かは分からないが)ハイヤーパワーというものが存在して、それが自分を正気に戻してくれると信じる。
  • そのことを信じることで、人は「神の概念」を持つようになる。
  • 「神の概念」は何でも良いとされているが、実は自明な条件がある。

  1. 12&12, p.37; OA12&12, 16.[]
  2. BB, p.68 — 「神についてよくわからない」と訳されている。原文は「神を完全に定義したり、理解したりできなくても、私たちは結果を手にできる」の意。[]
  3. BB, pp. xli, 40.[]

12ステップのスタディ,日々雑記

Posted by ragi