12ステップのスタディ (31) 情報整理 2 ACと共依存

ACとは何か? 共依存とは何か?

さて、これからアダルトチルドレン(AC)共依存のステップ1の説明に入るにあたって、そもそも「ACとは何か」「共依存とは何か」を説明しなければなりません。

依存症や12ステップに関心のある人でも、12ステップ共同体で使われているACや共依存の概念を理解できている人はほとんどいません。「ACは毒親に育てられて苦労している人」、「共依存とは依存症の人の回復を家族が妨げてしまうこと」といった程度の的外れな理解をしている人が大半です。

ACの説明としてランドリーリストを持ち出してくる人もいますが、残念ながらこれも不十分です。ランドリーリストはACの持つ特徴を箇条書きにしたもので、ACのミーティングでこれを読み上げることでアイデンティフケーション(自分も同じだという認識)を成り立たせるには有効なツールですが、このリストを読むことで「ACとは何か」を理解できる人はほとんどいません。

実のところ「ACとは何か」「共依存とは何か」を理解するためには、この二つの概念が成立する歴史を辿る必要があります。そこで、第16回から第20回まで5回に渡ってACや共依存関係の共同体の歴史を説明しました。しかし、あまりにも情報量が多すぎた(つまり長すぎた)という反省があります。そこで今回は、ACや共依存の概念の重要な部分だけを抜き出してできるだけシンプルに説明することにします。

知識と経験がある人への警告

ここで第15回の終わりで述べた注意をもう一度繰り返しておきます。精神科医や心理カウンセラーやソーシャルワーカーも、しばしばACや共依存という概念を使います。そういった人たちの使うACや共依存の概念は、12ステップ共同体で使われている概念とは「ぜんぜん違う」と言って良いほど違っています。そのことを意識しておくことがとても大切です。ACや共依存の状態から回復したいと願っている人は、精神科医の書いた本を読んだり、カウンセラーの行うカウンセリングやセラピーを受けたりしている人がとても多いのです。

ところが、その人がいざ12ステップで回復しようとしたときに、概念の違いがあるゆえに、それまでに本やセラピーで身に付けた知識や経験が、12ステップを理解する妨げになってしまうのです。僕は別に、カウンセリングやセラピーを利用するなと言っているわけではありません。役に立つものもたくさんあるでしょう。ただ、12ステップを学ぼうとするときには、そのような外部の専門家から得られた知識は忘れる(少なくとも12ステップに取り組んでいる間は脇に置く)必要があることは強調しておかなりません。

ACや共依存の問題に長く取り組んできた人ほど、すでに身に付けてしまった知識と経験が12ステップを理解する邪魔をします。すでに得ている知識との整合性を取ろうとせず、ビギナーとしてまったく新しい分野にチャレンジしているという気持ちで臨んでみてください。

アル中は酒をやめただけで真人間になるのか?

ACの概念を説明するためには、まず共依存について説明しなければなりません(なぜならACは全員例外なく共依存だからです)。そして、共依存について説明するためには、AAから話を始めなくてはなりません。なぜなら共依存はアルコホーリクとその家族の関係性から見つかった概念だからです。

酒で酔っ払っている人は正常な精神状態にはありません。では酔っ払いはどこがマトモではないのでしょうか? 25年ほど前に、日曜日の夜のテレビ番組のなかに「サラリーマン早調べクイズ」というコーナーがありました。

東京の新橋駅前で酔ったサラリーマン二人にクイズを出題し、正解すると高級寿司折りがプレゼントされるという企画です。酔っぱらいたちと安住紳一郎 アナウンサー(1973-)のかみあわないやりとりを笑いのネタにする企画でした。そのなかで安住アナが「大丈夫ですか?」と問いかけると、酔っぱらいたちは例外なく「大丈夫、大丈夫」と答えていました。

ベロベロの酔っぱらいたちは全然大丈夫そうには見えないのですが、本人たちにしてみれば「俺は大丈夫なのだ」という確信があるのです。つまりアルコールはそれを飲む人に誇張された自信を与えてくれるのです。

しかし拡大されるのはその人の自信だけで、能力はそのままです(というか酔うことで能力はむしろ低下する)。なのに酔っ払いは自分がすべての答えを知っている小さな神であるかのように行動します。まったく酔っ払いというものは困ったものです。

そして、アルコホーリクの場合には、これが毎日繰り返されます。それは病気だからしかたない面もあるのですが、このようなことが毎日続くと、いつしかアルコホーリクは自分に過剰な自信が与えられている状態が正常だと思うようになっていきます。自分を世界の中心に置いて、それを意のままに繰れることが望ましい状態だと信じる人格パーソナリティが形成されます。

そして、そのように作り上げられたパーソナリティは、酒を断っても元には戻りません。アルコールの与えてくれる万能感を失ったあとでも、アルコホーリクは自分が「偉大なる自己」であり続けなければならないと信じ、相変わらずすべての答えを知っているかのように振る舞います。その状態をAAの常任理事を務めた精神科医ハリー・ティーボーHarry Tiebout, 1896-1966)誇大性(grandiousity)と呼び、また日本の依存症治療に大きく貢献した精神科医斎藤学(1941-)は「つっばり」と「がんばり」と表現しました。1) 2)

AAのテキストでは、この状態を「ショー全体を取り仕切りたがる役者」と表現しています。あるいはもっと単純に自己中心性と呼んでいます。神ではないのに神のように振る舞おうとすれば、そこには当然不安や恐れが生じてきますし、意のままにならない周囲に対して不満と恨みを溜めていきます。人間は誰でも自己中心的なのですが、アルコホーリクはその極端なサンプルであり、その極端な自己中心性がその人自身を苦しめているからこそ、12ステップによって「変わる」必要がある、とAAのテキストは説きます。3)

AAのテキストは、アルコホーリクが自己中心的になった理由については全く触れていませんが、酒をやめても「偉大なる自己」になりたがる誇大性や自己中心性はそのまま残っていることを強調しています。つまりアルコホーリクは酒を止めても「病んだ状態」であり続けるのです。

問題を複雑にしているのは、アルコホーリク本人には自分がそのような「病んだ状態」にいるという認識はまったくなく、自分の誇大性や自己中心性には気がついていないことです。4) 気がついていなければ修正のしようもありません。だから、12ステップにはそのような自分の(みっともない)姿を棚卸表という鏡に映して見せるという手法を採っています。

アル中の配偶者(家族)はマトモなのか?

豚小屋に押し込まれる飲んだくれ The Drunkard Pushed into the Pigsty
『豚小屋に押し込まれる飲んだくれ』, by Pieter Bruegel the Elder, from Wikimedia Commons, PD

このように、酔っていようといまいと、アルコホーリクはすべての答えを知っているかのように振る舞うのですが、実際のアルコホーリクの言動は不合理そのものです。それは一緒に暮らしている家族にはたまったものではありません。ですから家族はなんとかそれをやめさせようとし、もっと現実的な地に足が着いた考え方をアルコホーリクに身に付けさせようとします。特に配偶者や親の立場の人はそうなります。

しかしそれは、アルコホーリクに自分の姿を鏡に映して見せようとする試みです。誇大な自己像にしがみつき続けたいアルコホーリクは、当然そんな(みっともない)自分の姿を見ようとはしません。ですから、そのような家族の試みは常に失敗に終わります。それでも家族はその試みをやめようとはせず、あれやこれやと手段を変えて同じことを試み続けます。このように、アルコホーリクの行動(action)に対して家族が反応(reaction)を続けることで、家族もまた「病んで」いくのです。アルコホーリクの家族のグループであるアラノンのテキストは、アルコホーリクと一緒に暮らすことで家族が様々な「病んだ反応」を身に付けて行くと説明しています。――アラノンのプログラムについては、Yukiさんがnotesで説明してくれています。

そして、アルコホーリクの誇大性や自己中心性と、家族の病んだ反応との間には共通点があります。アルコホーリクが小さな神のように振る舞う自己中心性は、言い換えるならば、本来コントロールできないものをコントロールしようとする性向だと言えます。そして、アルコホーリクの家族が、アルコホーリクの飲酒や誇大性の問題を自らの手で解決しようとするのも、解決できないものを解決しようとする性向という点で、自己の誇大性を信じてしまっているのです。

それはやむを得ないことだと言えます。アルコホーリクの飲酒や誇大性が病気ゆえにやむを得ないものであるのと同じように、そのアルコホーリクと一緒に暮らすことで迷惑を被っている家族がそれをなんとか解決しようとして病んでしまうのも、やむを得ないことなのです。

パラ・アルコホリズムと共依存

このように、アラノンでアルコホーリクとその家族がお互いに影響を与え合っており、家族もまた病んでいるという考え方が生まれたわけですが、1970年代になると、それが援助者の人たちのあいだでパラ・アルコホリズムや共依存という概念に発展しました。第16回

アルコホーリクの持っている誇大性や、周囲をコントロールしようとする自己中心性が、家族の側にも見られる(つまりアルコホーリク本人の病み方と家族の病み方の間に共通性がある)という観察から、パラ・アルコホリズム(あるいはコ・アルコホリズム)という概念が作られました。

パラ・アルコホリズムという言葉はACA(日本ではACoA)では訳されずに使われていますが、あえて日本語に訳せば疑似アルコホリズム(疑似アル中)となります。例えば、夫がアルコホーリク(アル中)ならば、妻は疑似アルコホーリック疑似アル中になるということです。アル中と疑似アル中の違いは「酒を飲むか飲まないか」です。アル中の夫と一緒に暮らしたことで、妻は(酒も飲まないのに)まるでアル中のような考え方と行動をするようになったという意味です。

そしてこのパラ・アルコホリズムやコ・アルコホリズムという言葉は、1980年代になると共依存(コ・デペンデンシー)という言葉へと変わりました。しかし言葉は変わっても、その意味は変わっていません。つまり、共依存とはパラ・アルコホリズム(疑似アル中)のことなのです。

共依存 = 疑似アル中

アダルトチルドレン(AC)

そして、パラ・アルコホリズムという概念が誕生したのとほぼ同時期に、アダルトチルドレン・オブ・アルコホーリックス(ACoA)という概念も生み出されました。つまり、アルコホーリクの親のもとで育った人たちのことです(アダルトという言葉はすでに成人しているという意味)。言葉が長いので日本語ではしばしば、アダルトチルドレンやACと略されます。

Pair of drunkards
子供からすれば飲んでいない親も、飲んでいる親と大して変わらないのであるPair of drunkards, by Jan Feliks Piwarski, from Wikimedia Commons, PD

とてもシンプルに説明すると、ACは二つの特徴を持っています。ひとつの特徴は、ACも共依存(疑似アル中)であるということです。ACもアル中一家の一員なので、両親の病み方に影響されて、アル中でない方の親と同じようにパラ・アルコホーリック(疑似アル中)になってしまうのです。そして、酒も飲まないのに、知らず知らずのうちにアル中のような考え方と行動をする人になります。

しかし単純にAC=共依存なのであれば、ACを他の家族メンバーと区別する必要はなく、ACもアラノンのなかで一緒に回復できたはずです。しかしながらアラノンはアルコホーリクの配偶者やパートナーの人たちが中心です。するとACにとっては、アラノンには(アル中ではない方の共依存の)親を象徴する人たちがいることになります。5) そしてACたちは、自分の親を象徴する人たちと一緒にミーティングをやることが難しかったのです。

それはACが、アル中と疑似アル中の両親に育てられたことで、感情的な傷を負っているからです。これがACの第二の特徴です。それゆえACたちは、アラノンのなかにアラノンACというACに特化したグループを作りました。そしてさらにその一部がアラノンから分離して、ACoAムーブメントと呼ばれる一群のグループを作りました。その分離の過程で重要な役割を果たしたのが、トニー・A(Tony Allen, 1927-2004)という人物です。

つまりACとは、アル中一家の一員であったことと、アル中と疑似アル中の組み合わせの両親に育てられたことで、

    • 共依存(パラ・アルコホーリック、疑似アル中)になった
    • 感情的な傷を負っている

という人である、とトニー・Aは説明しています。第17回 これはとてもシンプルかつ明確な定義です。ACは共依存者なのですが、単に共依存であるだけでなく、アル中と共依存の両親に育てられたことで感情的な傷を負っているという特徴があります。ここで忘れてはならないことは、ACは全員が共依存(疑似アル中)であり、共依存ではないACとか、疑似アル中ではないACというものは定義上存在しないのです。

ランドリーリスト

この疑似アル中ということと、感情的な傷という二つのことを説明して相手に理解してもらうのは意外と難しいことです。そこで1978年にトニー・Aが、ACの持っている特徴を14項目の短い文にまとめました。それがランドリーリストと呼ばれるリストです。ランドリーリストはとても分かりやすいと好評で、ACや共依存の問題を扱う専門家たちの著書にも取り上げられ、ACという分野全体に広がっていきました。

日本のACAやACODAが使っているミーティング・ハンドブックにも「問題」という名前でほぼ同じものが掲載されていますし、『ACのための12のステップ』という本にもほぼ同じ記述があります。6) つまり、ランドリーリストは(アラノンACを除く)AC共同体のDNAとも呼べるものです。

ただし冒頭で述べたように、ランドリーリストはアイデンティフケーション(自分もこの人たちと同じだという認識)を成立させるには有効なツールですが、考えと行動の特徴を述べているだけであり、ACという問題の本質を理解する手助けにはなりません。ランドリーリストを読んだだけで、ACの本質が疑似アル中と感情的な傷なのだと理解できる人はほとんどいません(そのことはランドリーリストに挙げられているのにもかかわらず)

ACという分野ではしばしばトラウマという言葉が使われます(時にはPTSDという用語も使われます)が、AC共同体のテキストを注意深く読めば、それが上に記した「疑似アル中」と「感情的な傷」の両方を指していることが分かります。

ランドリーリストはアルコホーリクにも当てはまるところで、ランドリーリストに記述された性格特性は(感情の傷について述べた10番を除いて)すべてアルコホーリクにも当てはまります。なぜならランドリーリストはパラ・アルコホーリクの性格特性を並べたリストだからです。誇大的で、周囲をコントロールしようとする自己中心性を備えた人物は、ランドリーリストが自分自身に当てはまると捉えるのです。

共依存とAC概念の拡大

さてこれまで見てきたように、共依存も、ACも、アルコホーリクの家族だけを対象とした概念でした。それには、これらがアラノンやアルコホーリクの回復を支援する援助職の人たちの間でできあがってきたという歴史的な事情によります。

1970年代末に、この二つの概念の拡大が始まりました。まず、アルコホリズムに類似した薬物嗜癖者や強迫的ギャンブラーの家族の人たちを含めるという拡大が起こりました。それらの問題はアルコホリズムとよく似ているので、その家族が自分たちのことを疑似アルコホーリクと捉えることはそれほど難しくありませんでした。

さらには、ACの分野では「親がアル中」という人たちだけでなく、「親はアル中ではないが、祖父母世代にアル中がいる」という人たち(グランドチャイルド・オブ・アルコホーリックス)も含めるようになりました。これは、1970年代にアディクションの回復支援に取り入れられた家族システム論という理論が使う、祖父母世代から親世代へ、親世代から子世代へと、世代を超えて影響が伝搬していくという考え方の影響を受けたからです。

このようにして範囲が拡大して行くにつれて、共依存やACの対象を依存症者の家族に限定する必要はないという考え方が出てきました。共依存という概念の源流は、アルコホーリクの持っている誇大性・自己中心性・他者を操作したがる性向でした。しかし世の中にはアル中やACでなくても、誇大性・自己中心性・操作性を備えた人たちは掃いて捨てるほどいます。ならば、その人たちも共依存者(あるいは疑似アル中)と呼んでも良いのではないか、そしてそのような疑似アル中である親に育てられた人たちも疑似アル中になるのだから、ACと呼んで差し支えないのではないか、という考えが成り立ちました。そうして、機能不全家庭のACACoD、アダルトチルドレン・オブ・ディスファンクショナル・ファミリィズ)という概念が1980年代半ばにできあがりました。第18回

ACoDの人たちの親はアル中ではありませんが、両親が疑似アル中であり、そのせいでACoD自身も疑似アル中になり、アルコホーリクのような考え方と行動をするようになったというわけです。

私は親のようにはならない(はずだったのに・・・)

私は親のようにならない: アルコホリックの子供たち
『私は親のようにならない―アルコホリックの子供たち』

クラウディア・ブラック (Claudia A. Black)はアメリカで活躍したソーシャルワーカーですが、自身がACであることを明らかにしており、トニー・Aと同じようにACの12ステップ共同体に大きな影響を与えた人物です。彼女には『私は親のようにならない』It Will Never Happen To Me!, 1981)という著書がありますが、その冒頭で、あるACの逸話を紹介しています。それは58才の男性の話で、彼はアルコホーリクである父親のようにはなるまいと一生努力してきたのに、この年になって振り返って見ると、考え方も行動も父親にそっくりになっていたという告白です。

自分の親に対して、この人のような大人にはなるまいと強く思いながらも、気がつけば自分は親と同じになっている――それがACがACであることの自覚です。トニーも「私たちは親たちと同じになってしまった(we have become our parents)」という表現をしばしば使いました。

ACという概念がACoAに限定され、パラ・アルコホーリック(疑似アル中)という言葉が使われていた時代は、「自分が親と同じになった」という認識は――それが受け入れがたいことであったとしても――ACたちに広く共有されていました。

しかしACoDを含むようになると、それが二つの流派に分かれることになりました。どちらも「親と同じになった」や疑似アル中という考え方を受け継いでいるのですが、その表現方法が異なっています。

パラ・アルコホーリックという考えを維持した流派

ACAフェローシップテキスト(ビッグレッドブック)
『ACAフェローシップテキスト』

一つは、「親と同じになった」や疑似アル中という考え方をそのまま保った流派です。こちらには、ACA(日本ではACoA)とアラノンACが含まれます。したがって世界的にはこちらが主流ということになります。ACA(ACoA)ビッグレッドブックと呼ばれるテキストは、一つの章で「自分たちは親と同じになった」ということを、もう一つの章でACoDも疑似アル中なのだということを説明しています。この二つの章に50ページも割くという熱の入れようです。7) アラノンACは「親のようになった」とかパラ・アルコホーリックという表現を使っていませんが、こちらに属しています。

共依存もアディクションの一種だと捉えた流派

『ACのための12のステップ』
『ACのための12のステップ』

もう一つは、ロン・Hとパル・Dの二人(筆名はフレンズ・イン・リカバリー)が書いた『ACのための12のステップ』という文献を使う流派です。ロンたちのテキストを採用している日本のACAやACODAは、こちらに属します。この本ではACoDの人が受け入れやすいように、「親と同じになった」や疑似アル中という表現を使いませんでした。その代わりに共依存を物質嗜癖やプロセス嗜癖と同じような嗜癖(アディクション)の一種と捉えました。つまり、アルコホリズムがアルコールへの嗜癖であるように、共依存は人々や物事をコントロールしようとすることへの嗜癖であるとみなしたのです。ACoDの親はアルコーリクではなかったが共依存というアディクションを持っており、そのようなアディクションを持った親に育てられたことで、自分たち子供も共依存というアディクションを持つようになった、という捉え方をしました。つまるところそれは、ACは(アル中に似た)共依存という嗜癖を持っているということと、「自分たちは親と同じになった」ということを言っているのと等しいことになります。

このようにどちらの流派でも、ACは「親と同じになった」かつ「疑似アル中あるいは共依存という嗜癖を持つ」という共通した考え方をします。

ところが、21世紀の日本のAC共同体では、これら二つの重要なポイントがほぼ忘れ去られているように見受けられます。ステップ1を構成する重要な要素が抜け落ちてしまえば、その後のステップワークが順調に進まないのも当然です。

僕はACの人をスポンシーに持った経験は多くないので、サンプル数が少ないのですが、やはり自分が親と同じになったことや疑似アル中になったことを受け入れて認めることができる人は回復しますし、自分はあくまで親とは違うとか、疑似アル中なんてとんでもないという否認が強い人は(少なくとも12ステップによる)回復は難しいと言えます。

21世紀になってもう25年も過ぎました。この期間の間に日本のAC共同体が失ったものを、テキストを読み込むことで取り戻すべきではないかと思います。

ACの回復

トニーの著作はACが回復するには何をすれば良いかを明確にしています。再掲しますが、ACとは、

    • 共依存(パラ・アルコホーリック、疑似アル中)になった
    • 感情的な傷を負っている

という人たちです。このうち共依存については12ステップに取り組むことで解決していくことになります。なぜなら共依存とは疑似アルコホリズムあるいは嗜癖の一種なのですから、12ステップによる回復が期待できます。ACの12ステップは(細かな違いがあれど)AAやNAやOAの12ステップと同じものです。

ところで、アルコホーリクであり、かつACでもあるという人も少なくありません。そのような人は、AAに参加してAAの12ステップに取り組み、なおかつACの共同体に参加してそちらでもACの12ステップに取り組む必要があるのでしょうか? 基本的にそのような二度手間は必要ありません。なぜなら、ACの12ステップは、AAなど他の共同体の12ステップと基本的に同じなのですから、AAのなかで12ステップに取り組むことでACの問題からも回復できるのです。これは実際のその通りで、例えば Big Book Comes Alive! という12ステップのセミナーを行ったジョー・マキューらは、そのなかで彼らの親がアルコホーリクであり、ひどい子供時代を過ごしたことを語っています。そのことから二人がACoAであることは明らかですが、彼らはAAだけで回復しています。なぜなら当時はACの共同体はまだ存在しなかったからです(ジョー・マキューたちについては「ジョーとチャーリーについて (1)」を参照)

しかしながら、実際のところは、AAの中だけでACの問題からも回復できると断言できる状況ではないのも事実です。なぜなら、それを実現するためには、ACという問題を自分自身で理解するか、あるいはそれを理解しているスポンサーに出会わなければならないからです。そういった条件が整わないために、AAやNAのなかでACの問題の解決を見つけられなかった、という人は少なくないようです。(もうちょっとがんばってスポンサー探せよ、と言いたい気もするのですが)。

感情的な傷をどう癒すか

それに加えて、理解のあるAAスポンサーがいるだけでは不十分という別の事情もあります。それがもう一つの「感情的な傷」をどう癒すかです。

それについては12ステップとは別の技法が必要になります。多くのACの人たちが自分が負った「傷」を癒すのに12ステップが効果があるのではないかと期待しますが、なかなかそうはいきません。なぜなら、12ステップの棚卸しなどは主にその人の認知の部分に働きかけるからです。棚卸しは、それまで知らなかったこと、気がつかなかったことをその人に知らしめることで効果を上げていきます。つまり、自分の(みっともない)姿を鏡に映して見せるという手法です。しかし、傷ついているのは感情なので、認知に働きかける12ステップは「感情的な傷」にはあまり効果を現わしません。

押し込められた怒りと悲しみ
ChatGPTにより生成

トニー・Aは、ACは感情を奧に押し込めてしまっていると述べています(ランドリーリストの10番)。普通の子供は喜びであれ悲しみであれ、かなり自由に感情を表現することが許されています。しかし、ACの育った環境では、不平・不満・悲しみ・怒りなどのネガティブな感情を表現することは親の機嫌を損ね、さらに自分が傷つく結果を招きかねません。そこでACは、そのようなネガティブな感情を奧へと押し込めてしまい、やがてそんな感情などなかったように自分を欺いて、このようなひどい状況でも「自分は大丈夫」なのだという誇張された自信を身に付けていきます。それはアルコホーリクが酒を飲むことで身に付ける誇張された自信と同じ類のものです(その点でもACは疑似アル中です)。しかし、その自信は偽りのものでしかないことを本人もわかっているのです。

トニー・Aは、AC共同体とその他の共同体は(12ステップではなく)ミーティングのやり方が違っていると述べています。ACは子供の頃に感じた無力感や怒りや悲しみを、奧に溜め込んだままにしておいてはいけないのであって、その怒りや悲しみが果てるまで何度も何度も再体験しなければならない、というのです。

ACはその怒りを、大人になってから、不適切なときに、つまり親に似た人や親を思い出させる人相手に爆発させたり、悲しみによって人を遠ざけたりします。また、配偶者や子供相手にそれをして家族を自分の問題に巻き込んだりします。アルコホーリクが自分の病気に家族を巻き込んで疑似アルコホーリクにさせるのと同じことを、ACもしてしまうのです。

トニーは、ACのミーティングは、そのような激しい感情を表現するための安全な場であるべきだとしています。ACのメンバーはそのことを理解しているので、溜め込んだ怒りを爆発させる人に対して、それは間違っていると制止することもありません。その激しさが他の参加者の心をゆさぶって奥に溜め込まれた感情を引き出すという連鎖反応も生まれます。当然、そのような激しい感情の分かち合いによって具合が悪くなる人も出てきます。トニーは、AAなどのミーティングでは出席した人が気分が良くなって帰っていくが、ACのミーティングでは皆が具合が悪くなって帰っていくと述べています。第17回

それはある種の持続的暴露療法 ではないか、そして具合が悪くなるのは解除反応なのではないかと指摘した人がいました。素人がそんな取り組みをすることを危惧するのは当然だと思いますが、逆に言えばプロフェッショナルたちがそうしたセラピーを手の届く範囲で提供できていないからこそ、当事者たちが自分たち「なんとかする」しかなくなっているのでしょう。

トニーがこれらの文章を書いたのは1980年代終わりでした。それから30年以上経過した現在でもこのような実践がそのまま続けられているとは思いませんが、僕はACA(日本ではACoA)のテキストの次の記述に注目しています:

ACAではミーティング中に誰かが感情的になった時、その人に触れたり、ハグしたり、慰めようとはしない。もし誰かがミーティング中に泣きだしたら、その人が感情を感じるに任せる。その人に触れたり言葉をかけたりすることで、その人の涙を止めたりしてしまうことなく、その人をサポートする。・・・私たちのするサポートとは、人をミーティングに受け入れ、その人が自己の痛みに直面している時、その話に耳を傾けることである。8)

つまりACのミーティングは自分が押し込めてきた感情や痛みに直面するものであり、他の人はそれを押しとどめたりしないことを強調しています。

ACの共同体は、他の共同体とは
12ステップが違うのではなく、
ミーティングのやり方が違う

しかし、「自ら抑圧してきた感情を取り出して再体験する」という実践を維持していくのは容易ではないようで、日本のAC共同体のミーティングは、実際のところAAやNAのミーティングとあまり変わらない実践になっているように見受けられます。なぜそうなってしまったのでしょうか? 仮にもしAAのミーティングで親への恨みつらみを毎回分かち合って感情的になっていたら周囲のメンバーから「回復していない」というレッテルを貼られてしまいますから、そういった実践をしようとしてもAAでは当然抑制されてしまいます。そのような経験を持つAAメンバーが、ACの共同体に参加して、AAでの経験のままにミーティングで分かち合いを続けていたら、ACのミーティングはその影響を受けて、次第にAAやNAその他のミーティングと同じになっていくでしょう。

そのように感情の傷に対処する実践がAC共同体から失われたことも、12ステップが感情の傷を癒してくれるといった期待と誤解が生じてきている原因ではないかと考えています。

また、自分が負った「傷」さえ癒えれば十分で「ステップなんかやる必要がない」と考えるACは、酒さえやめれば十分だと考えるアルコホーリクとよく似ているように思われます。

捨てていくプログラム

前の連載でも繰り返し強調しましたが、12ステップは何かを獲得するものではなく、役に立たなくなったものを捨てていくプログラムです。BBS#102, #111 それを象徴するのが掃除(housecleaning)という言葉です。ACの抱えている問題のうち、

    • 共依存(パラ・アルコホーリック、疑似アル中)になった

ことについては、子供時代に身に付けてしまった考え方や行動を12ステップによって捨てていくことになります。また、

    • 感情的な傷を負っている

ことについては、奥に押し込めてしまった感情をミーティングなどの安全な場所で取り出して再体験することで、「体に残っている毒」を排出していきます。これもまた(12ステップではありませんが)捨てていくプロセスです。

こうしてみると、ACの共同体のプログラムも、他の12ステップ共同体のプログラムと同じように「捨てていくプログラム」であることがわかります。

しかしながら、そのことを理解せずに、何も捨てようとしないまま、自分に魔法のような「癒し」が起これば何もかもうまくいくはずだと信じているACも少なくありません。そして、12ステップにその魔法のような癒しを期待しているのです。

現実にはそのような魔法の癒しの手段など存在しません。共依存にせよ、感情の傷にせよ、用意されているのは地道な掃除と排出の手段です。しかし不思議なことに、それをやって回復した人たちは、回復できたのは自分がそのような努力を地道に続けたからではなく、ハイヤー・パワーが癒してくれたからであると語るのです。そこも、他の12ステップ共同体と同じです。

わきみち1990年代の崩壊を経て大合同を果たしたACA(日本ではACoA)は、結果としてインナーチャイルド・ワークやラビングペアレント・ワークなどを取り込んだために、回復のためのプログラムがミーティングと12ステップだけでなくっています第19回。そうしたワークは霊的な回復プログラムとは別の範疇に属するものなので、このブログでは取り扱いません。

12ステップはACの共依存のためのもの

このように、ACの12ステップは、ACの持っている共依存という問題を解決していくための手段です。共依存という用語は現在では多様な意味で使われるようになりました。そこで今回は、12ステップで使われる共依存という用語の意味を明確にするために、それをパラ・アルコホリズム、あるいは疑似アル中という言葉に変えて説明しました。

あえて疑似アル中という「どぎつい」用語を使ったのは、ACという問題の本質をはっきりと理解して欲しかったからです。共依存=疑似アル中であることを心に刻んでおいて欲しいのです。さらに詳しく知りたい人は第16回から第20回を読み返していただければ幸いです。

僕がAAに加わったのは、日本でACブームが起きていた1990年代でした。当時は「アル中は酒をやめると共依存になる」という表現がよく使われました。その真意は、アルコホーリクは酒を止めても「何もかも取り仕切りたがる役者」のままであるということです。「何もかも取り仕切りたがる役者」はAAのビッグブックのステップ3の説明に出てくる表現です。

つまり、ACは共依存であり、そのことを認めることがACのステップ1に含まれているわけですから、ACのステップ1は、AAのステップ3に相当するものを含んでいるのです。それがACの12ステップの最大の相違点だと言えます。次回からはACのステップ1の説明に入ります。

今回のまとめ
  • ACは、
    • 共依存(パラ・アルコホーリック、疑似アル中)になった
    • 感情的な傷を負っている
  • 共依存(疑似アル中)からは12ステップによって回復していく
  • 感情の傷は、押し込まれた感情を再体験することによって回復していく
  • ACの回復のプログラムも(何かを獲得するのではなく)捨てていくプログラムである

  1. AACA, pp. 470-471.[]
  2. 齋藤学『アルコール依存症の精神病理』, 1985,  金剛出版, pp.8-12.[]
  3. BB, 第五章.[]
  4. BB, p.90.[]
  5. アルコホーリクたちは基本的にアラノンではなくAAに行く。[]
  6. AC12 (1989), pp.18-20.[]
  7. ACABRB, 第2章、第3章.[]
  8. ACABRB, p.652.[]

12ステップのスタディ,日々雑記

Posted by ragi