12ステップのスタディ (18) 1980年代のACムーブメント
前回は、トニー・Aが1978年春に書いた「問題(ランドリーリスト)/解決」の文書の存在と、そして1980年前後のアラノンの態度の明確化によって、アラノンACからの分流が生じた様子を説明しました。そして、アラノンACも、そこから分かれたACoAムーブメントの側も、1980年代に大きく発展しました。
その後のトニー・A
アラノンACは1986年には1,100グループに達しました。1) ACoAムーブメントの側にはそのような統計は見当たりませんが、一説によれば1989年にはミーティングの数が1,300に達していたそうです。2)
そのような急激なACグループの発展の影にトニー・Aの活躍があった・・というわけではなく、彼は1981年にACoAムーブメントから身を引いてしまいました。
彼はその理由を「自分が決してなりたくない権威者の立場に置かれていると感じ始めたからだ」と説明しています。
I was terrified of authority figures, and of becoming one. An authority figure, to me, can be a perpetrator.3)
「私は権威者を恐れていたし、権威者になることを恐れた。私にとって権威者は、加害者にもなりうる存在だ」(拙訳)
ランドリーリストの1番に「権威者を恐れる」とありますが、ACは自分が権威者になることも恐れるのです。また彼は注目を浴びることによる自分の回復への影響も心配しました。そこで彼はミーティングを突然取りやめてACoAムーブメントから離れてしまいました。一度様子を見に戻ってきましたが、彼が入った部屋は静まりかえりました。彼自身「エゴの押し売りだった」と認めていますが、ムーブメントから離れてフロリダに引っ越し、その地で株式ブローカーの仕事を続けながら、しばらくの間アラノンに戻っていました。
しかし、まったく無縁でいることはできなかったようで、人に頼まれてパームビーチのベセスダ・バイ・ザ・シー(Bethesda-by-the-Sea)という聖公会の教会でACoAのミーティングを始めました。そこからフロリダのいくつかのミーティングが誕生していきました。4)
そのような関わりはあったものの、トニーは次に述べるカリフォルニアでのACA共同体の設立や運営には関わりませんでした。彼はその後も基本的に無名の存在として過ごし、誰がACoAムーブメントを始めたのか、誰がランドリーリストを書いたのかも知られていない状態になりました。しかしながら、おそらく彼にとっては不本意なことだったと思われるのですが、その後も何度か歴史の舞台に登場する羽目になります。それについては、その都度取り上げていくことにしましょう。
僕の最初のAAスポンサーもトニーのように自分が権威を帯びることを極端に嫌う人でした(彼はACoAでした)。彼は「豚もおだてりゃ木に登ると言うけれど、木の上は豚にとって決して過ごしやすい場所ではない」と言っていました。そんなこともあって僕はトニーの心情を理解できるのですが、やはり創始者としての責任を投げ出したという印象を持たざるを得ません。第13回で取り上げたSRAの創始者マリー・Rは、自分が創始者であることを伏せ、基本テキストに自分のストーリーも載せませんでした。他方、OAの創始者ロザンヌ・Sは何度過食に戻ってもOAの創始者としての役割を最後まで全うしました(第8回)。それらを踏まえて考えると、創始者というのは、時には自分の回復よりも共同体の発展を優先させなければならない立場なのかもしれません。
ACoAムーブメント西海岸へ(ジャック・E)
ACoAムーブメントはニューヨークでトニー・Aが始めたものですが、それを西海岸に持ち込んだのがジャック・E(Jack E.)でした。彼の物語はビッグレッドブックに収録されています。5)
ジャックは、母親と、父方・母方両方の祖父がアルコホーリクでした。そして彼自身もアルコホーリクになり、さらにアルコホーリクの女性の何人かと結婚しました。彼が1978年にニューヨークのジェネレーションズ(前回)のミーティングに参加する頃には、AAとアラノンで20年の経験を積んでいました。
ジャックはそれ以前の1976年に、AAメンバーの依頼で20代前半のアラノンメンバーたちのミーティングで話をしましたが、その時は若者たちの抱えている問題を理解できず、それ以上深くは関わりませんでした。彼はその理由を「同情はしたが共感ができなかった」と述べています。このグループが前回説明した「アダルトチルドレン・オブ・アルコホーリックの希望」グループだったのか、それとも他のアラノンACグループだったのかははっきりしません。
だが2年後には、彼はジェネレーションズ・グループの常連メンバーになっていました。このグループには彼と同じおじさん世代のAAメンバーがたくさん加わっていたことが共感を花開かせました。かつての無関心とは違い、彼はこのムーブメントに熱意を持つようになっていました。翌79年11月にはロサンゼルスの仕事を引受けて西海岸に引っ越していきました。
ロサンゼルスに移った彼はAAとアラノンに参加していましたが、それだけでは物足りなく感じました。そこで1980年8月に数人のアラノンメンバーを誘ってサンタモニカ の彼の自宅でACoAのミーティングを始めました。彼はニューヨークから持ってきたランドリーリストを皆に提示しましたが、使われている言葉が気に入らないという理由で受け入れてもらえませんでした。そこで彼は次のミーティングまでに「問題」の文章を新たに書き起こしてくると約束しました。彼は箇条書きだったランドリーリストを物語り的に書き直し、新たな「問題」として提示しました。これが、トニー・Aの「ランドリーリスト(問題)」とは別の「問題」の文章ができた理由です。6)
このミーティングの参加者はどんどん増え、ジャックの努力によって別のミーティングも始まり、1年半後には南カリフォルニア全体にACoAのグループができていました。それらのミーティングで使うための「問題」と「解決」の原稿が複数作られましたが、それらはどれも最初のものに少し変更を加えただけでした。彼はアメリカ独立宣言 (1776)を起草したトマス・ジェファーソン (1743-1826)のように、それらの原稿を調停して一つのものに仕上げる役割を果たしました。
このようにして、アメリカの東海岸で始まったACoAムーブメントは、1980年に西海岸に伝播し、カリフォルニアの地で花開きました。
アラノンであることの葛藤
だが、その後のいきさつはビッグレッドブックにもACA共同体の他の文献にも書かれていません。そこで、当時の様子がわかる資料を探し回った結果、ACAアメリカ西部地域(ACA Greater Western USA Region)のサイトで ACA WSO Early History (ACA WSOの初期の歴史)という文書を見つけました。以下の記述はこの文書に拠ります。7)
それには、1981年以降の10年間のタイムラインや、カリフォルニアでACA共同体やそのサービス機構を作り上げた人たちのストーリーが収録されています。今回はそれを元に、ジャック以降の歴史をたどっていくことにします。
ACoAムーブメントが西海岸に波及してからの数年間、彼らはアラノンの一部(すなわちアラノンAC)だという意識で活動していました。しかし「アラノンである」ことは彼らにとってメリットよりもデメリットが大きく感じられるようになっていきました。
まず彼らは「問題」と「解決」の文書をミーティングで使うことを希望して、それをアラノンに承認してもらおうとしました――ニューヨークのACoAグループでも「ランドリーリスト」などをアラノンのオフィスに送ったとトニーはインタビューで述べています。8) しかし、返事はいつも「十分良いものになるまで改善を続けなさい」というものでした。これはやむを得ないことで、第15回で述べたように文献の作成には手間がかかるものなのです。例えばアラノンがAC向けのパンフレットを作ることを決議したのは1973年でしたが、実際に出版されたのは6年後の1979年でした(第16回)。それぐらいの年数はかかるのでしょうが、コンロール欲求の強いACにとって、それは到底待てる年数ではありませんでした。(アラノンのクローズド文献ポリシーとの衝突)
また、アラノンのメンバーになるためには、家族のだれかがアルコホーリクでなければなりません。しかし、西海岸のACoAのミーティングには、オーバーイーターやギャンブラーの子供たちも参加し始めていました。(ACoA以外の参加)
そして、アラノンはアルコホーリクの家族のためのグループですが、家族であるだけでなく、その人自身がアルコホーリクである(家族であるとともに本人でもある)という人たちも参加しています。アラノンは、そのような「アルコホーリクでもある」メンバーはグループレベルのサービスまでしかできず、インターグループや全体会議には出席できないという制約を課しています。その制約は、ACたちを困らせました。というのも前回説明したように、ACのグループはアルコホーリク本人でもあるメンバーの参与なしには立ちゆかないこともしばしばで、グループの代表を選ぶことが困難になったからです。(アルコホーリクをグループ代表にできない制約)
そのような不都合が生じたために、彼らにはアラノンであり続けるのか、それともアラノンの庇護を脱していくのかという葛藤が生じました。そして、脱するとするならば、独立した自分たちのアイデンティをどう定義していくかという問題が生じました。
サービス機構の確立とアラノンからの独立
ところでACoAのグループが増えたカリフォルニアでは、1981年以降、毎年ACの大会(コンベンション)を開催していました。そのためにメンバーから献金を集めていましたが、その会計が不明朗になり、1983年の大会の後には200ドルの支払いが必要なのに銀行口座に28ドル46セントしかないというトラブルが起きました。この解決のために招集された会議が、1983年7月に暫定中央サービス委員会(Interim Central Service Committee, ICSC)へと発展しました。これがACA共同体の初のサービス機関です。
この年、ICSCは重要な二つの決定を下しました。一つは、自分たちの12のステップと12の伝統を作成したことです。この時に彼らが作った12ステップを記録した文献は発見できていません。ただ、この12ステップが現在のACA共同体に受け継がれたことや、後にステップ1に「その他の家族の機能不全(other family dysfunction)」が加えられたとされていることを勘案すると、このようなものだったと思われます:9)
- 私たちはアルコホリズムの影響に対して無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
- 自分を超えた大きな力が、私たちを正気に戻してくれると信じるようになった。
- 私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
- 徹底して恐れずに自分自身の棚卸しをした。
- 神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの正確な本質を認めた。
- こうした性格上の欠点全部を神に取り除いてもらう準備が完全に整った。
- 私たちの短所を取り除いてくださいと謙虚に神に求めた。
- 私たちが傷つけたすべての人の表を作り、その人たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。
- その人たちやほかの人を傷つけない限り、機会あるたびに、その人たちに直接埋め合わせをした。
- 自分自身の棚卸しを続け、間違った時は直ちにそれを認めた。
- 祈りと黙想を通して、自分なりに理解した神との意識的な触れ合いを深め、神の意志を知ることと、それを実践する力だけを求めた。
- これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め、このメッセージを今も苦しんでいる人たちに伝え、私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した。10)
このステップは基本的にAAのステップをそのままACoA向けに最小限の変更をしたものであり、ACのために特別な12ステップが必要だと考えられていたという情報はありません。
ICSCが下したもう一つの決定はアイデンティティ、目的、関係委員会(Identity, Purpose, and Relationship Committee)の設置でした。それは自分たちのアイデンティティや目的、そしてAAやアラノンとの関係をどうするかの方針を決める委員会でした。この委員会はグループに12の質問項目を書いた調査票を送り、返送されてきた43通を元に、この委員会のリーダーであるマーティ・S(Marty S.)が、最初のアイデンティ文書「ACAプログラム―どう効くのか」を書き上げました。そしてそれを1984年11月に開かれた第1回の年次ビジネス会議(Annual Business Conference, ABC)に提出しました。11)
この会議でこのアイデンティ文書が採択されました。それと同時に、前年にICSCが決めた12のステップと12の伝統も採択され、自分たちがアラノンから独立したACA(Adult Children of Alcoholics)共同体であることを宣言しました。――この会議の半年前に行われたアラノンの全国会議で、アラノンはアダルトチルドレンの参加を歓迎し、ACグループの存在をアラノンに必要なもの認める公式宣言を行いました(第16回)。そのなかでアラノンの文献を使うことを条件に挙げています。つまり、1984年のアラノン側とACA共同体のそれぞれの決定によって、アラノンACとACoAムーブメントは明確に分離されたと言えます。
虐待とPTSD
アイデンティティ、目的、関係委員会のリーダーを務め、ACA共同体のアイデンティ文書を書いたマーティ・S(Marty S.)は自分自身がアルコホーリクではないAC(いわゆる「純粋なAC」)でした。彼は父親がアルコホーリクだったことの重要性を意識しないまま、セラピーを受けるために西海岸にやってきました。彼は父親から「儀式的虐待」を受けたために多重人格者になっていたことを後に知るのですが、しかしこの時点で彼が治療を受けたセラピストたちはPTSD(心的外傷後ストレス障害 )についてもアルコホリズムの影響についても何も知りませんでした。
そこで彼は自分を治せる治療法を探して大学院で学びましたが、当時のカリキュラムの中には見つけることができませんでした。しかし、その大学で行われたジャック・Eの講演や、AAの女性メンバーと知り合ったことをきっかけに、彼はアラノンへ、そしてACoAのグループへと導かれていき、そこに腰を落ち着けました。
彼はアイデンティティ文書「ACAプログラム―どう効くのか」のなかに、彼らの育った家庭の中には虐待やネグレクトがあったことを記し、その影響をPTSDと表現しています。しかし、そこに「心的外傷後ストレスとは、基本的な安心感が損なわれたことによる深い哀しみ(グリーフ)が解決されていないために訪れる緊張状態である」という注を入れています。12) わざわざこのような注を入れたのは、彼がこの文章を書く以前にPTSDについて学び、アダルトチルドレンの特徴とPTSDの特徴は似ているところがあるが同じではないことを発見していたからでした。
現在のACA共同体は、虐待とネグレクトにフォーカスし、その影響をトラウマやPTSDと表現した上で、それを癒すためのプログラムだと自分たちを位置づけています。13) しかし、それは医学的なPTSDを意味しているわけではなく、独自の定義によるものです。ACA共同体において、PTSDという言葉は自分自身の感情を感じられなくなっている状態(トニー・Aがランドリーリストで「自分の感情を押し込めている」と表現した状態)を指しています。第15回で説明したように、12ステップ共同体は、医学・医療の概念や定義にとらわれずに、自分たちに最も役に立つ問題の定義を作り上げます。ACAのテキストは、必要であれば職業人たちによる治療を受けることを推奨しています。彼らは医学的な意味でのPTSDを「治せる」とは決して主張していません。そのことを理解していない外部の援助者たちが、自分たちの手に負えないPTSD患者をACグループに紹介しているおかげで、現場はずいぶん混乱しているように思われます。
12ステップグループは医療や心理療法の補完でもなければ、代替でもありません。そもそも問題の定義自体が違うのだ、ということをこの分野に関わる人は十分に意識している必要があります。
マーティは、アイデンティティ文書の中で「他者が感じている深い哀しみ(グリーフ)の重荷を共有すること」でPTSDが癒されていくと表現しています。それは、トニー・Aたちが作り上げた、過去の感情を再体験し、共有するというミーティングの手法(前回)と共通しています。
また、自分のインナーチャイルドを愛することで自分自身が求めている愛を自分に与えるという考え方がはっきり盛り込まれたのも、この最初のアイデンティティ文書でした。
ACoAムーブメントとACA共同体
1984年に成立したACA共同体は、さっそくサービス機関である中央サービス理事会(Central Service Board, CSB)を設置しました。理事会は翌年には電話回線を引き、オフィスを設置しました。さらに、地方組織であるインターグループの設立を命令し、さっそくカリフォルニアに最初のインターグループができあがりました。
このように、カリフォルニアのACoAグループがACA共同体を作り、それを全国的に展開してACoAムーブメント全体を取り込むことを意図したのは明らかです。しかし、ことは彼らの思惑通りには進まなかったようです。1987年には彼らは範囲を国外にも広げてワールドサービスの機構を作ることを計画しました。さらには、違う名前で活動しているACの共同体も取り込むことも意図してAPACA (Anonymous Programs of Adult Children of Alcoholics) 委員会を設置しました。しかし、翌年にはこの委員会内で対立が生じ、多くの人々が去りました。ACA WSO Early History は対立の相手方のことについては何も記していませんが、地域的な対立があったものと思われます。
ACoAムーブメントは、1989年には1,300のミーティングが存在するまでに活発化したといいます。その全体をACA共同体が取り込めていたわけではなく、他にもACAやACoAを名乗る共同体やグループが存在していました。14)
しかし、オフィスを構えて、ミーティングで使う文献を発送したり、ミーティングの一覧を作成するサービスが提供できていたのはカリフォルニアだけであり、次第にその影響力は増していったものと思われます。
プロフェッショナルからの影響
では、トニーたちやカリフォルニアのACAが全国にメッセージを運んでACoAムーブメントが広がっていったのではないのなら、どのようにしてACoA/ACAのグループが全国に誕生していったのでしょうか?
1979年に『ニューズウィーク 』誌が、クラウディア・ブラック 、ステファニー・ブラウン(Stephanie Brown, 1944-)、シャロン・ウェグシャイダー=クルーズ(Sharon Wegscheider-Cruse, 1938-)を取り上げた記事を掲載しました。この三人はいずれも1970年代からアルコホリズムの存在する家庭で育った影響が生涯に及ぶことを訴えてきたソーシャルワーカーやライターであり、この記事によって、アダルトチルドレン・オブ・アルコホーリックの存在は広く知られることになりました。この記事はACoAムーブメントにとって実質的に第二の文献となった、とトニーは述べています。15) これは1979年5月28日号に掲載された “Aiding children of alcoholics”(アルコホーリクの子たちを援助する)という2ページの記事だと思われます。ウィリアム・L・ホワイトがクラウディア・ブラックに対して2015年7月に行ったインタビューのなかで、彼女は1979年のニューズウィークの記事によって講演の依頼やテレビ出演が急増したと述べているので、そのインパクトは大きかったのでしょう。16)
1980年代になると、全米のアディクション治療施設が、共依存やACの治療プログラムを提供するようになりました。それは保険会社が共依存やACの入所型治療プログラムに対して保険給付を行うようになったからでした。それまでアルコホーリクの家族は、アルコホーリクの周囲にいてその回復を支援する「資源」の一部として扱われていたものが、自らが治療と支援を受ける権利のある患者として認められたのです。17)
それ以前から、そのような治療施設は、治療プログラムを終えた人たちにアフターケアとしてAAやNAの利用を勧めていました。しかし、アダルトチルドレンにはそれにふさわしいグループが十分に存在しなかったので、施設側では利用者に対してACのグループを作ることを勧めましたし、ACたちもそれを望んだものと思われます。
前回、日本のACグループの黎明期に関わった人の話を取り上げましたが、1980年代に複数のACA共同体が存在し一つにまとまらなかった理由のとして、そのような特定の施設やカウンセラーの必要によって作られたACグループは、全国的なACグループ同士の繋がりよりも、特定のプロフェッショナルとの結びつきが強く、合同が難しかったと説明されていました。
そのように、ACoAムーブメントの拡大は、プロフェッショナル側の事情によってもたらされたもので、それはグループの増加というメリットと同時に、分断というデメリットももたらしました。また、プロフェッショナルとの結びつきが強いと、回復の理念などはそのプロフェッショナルから供給されるために、自分たちで作り出す必要が無くなります。それが当時のACoAムーブメントが12ステップを説明するテキストを作り出せなかった理由でもあるのでしょう。
この時期のACoAムーブメントとプロフェッショナルの関わりのなかで、トニー・Aの名前が歴史のなかに登場します。トニーはランドリーリストを書いたものの、その著作権を主張しませんでした。結果としてランドリーリストはアノニマス(作者不明)という扱いになっていました。1980年代になってACoAに関する本が出版されるようになると、そのなかにACの特徴としてランドリーリストを編集して掲載し、自分がその著者だと主張する人が現れました。そこで、カリフォルニアのマーティ・Sはフロリダのトニー・Aに電話をかけ、ランドリーリストの著作権を主張するように勧めました。ACA WSO Early History はその原因となった書籍を特定していませんが、おそらくジャネット・ウォイティッツ(Janet G. Woititz, 1938-1994)が1983年に出版してベストセラーになった Adult Children of Alcoholics のことだと思われます。18) 他にも、ランドリーリストを元に作られたと思われる「ACの特徴リスト」はいくつも存在します。
トニーはマーティの勧めを受け入れた様子はありませんが、それは彼が自分の本を1991年に出版する動機の一つにはなったのかもしれません(著書の中で彼は自分がランドリーリストの著者であることを明言している)。
トニーも治療施設との関わりを持ちました。フロリダに移った彼は株式ブローカーの仕事を続けながら、生活困窮者向けのスリークォーターハウスの運営に関わっていましたが、やがてパーム・ビーチ・インスティチュート(Palm Beach Institute)というアディクション治療施設で仕事をするようになりました。19) The Laundry List の最後には数人のACoAの回復のストーリーが掲載されていますが、そのなかにはトニーの黙想のクラスを受けた人の話が含まれています。
アディクション治療産業の勃興
ところで、1980年代のアメリカでは共依存やACの治療に保険治療を受けられたという話をすると、なぜそれが可能になったのか(そしてなぜそれが今は行われていないのか)興味を持たれる人もいるでしょう。それを説明することは、なぜACや共依存の文化が1980年代に花開いたか、そしてなぜ1990年代にACムーブメントが急速に萎んでしまったのかの説明にもなりますので、ここでいったんACoAのことを離れて、当時のアディクションの治療業界の話をしましょう。
公的助成
発端の一つは1970年代にアルコホリズムの治療に公的な助成が始まったことでした。その立役者は、アイオワ州選出の上院議員ハロルド・ヒューズ(Harold Hughes, 1922-1996)でした。彼は1955年にAAにつながって酒をやめたアルコホーリクでした。彼は1963年から1969年までアイオワ州知事を務めましたが、1964年の再選選挙の時、対立候補が彼が1954年まで飲んだくれていたことを暴露し、そのことを伏せているのは不誠実だとして非難しました。それに対してヒューズは自分がAAメンバーであることを選挙活動のなかで認め、神の助けがあればもう一生飲むことはないと反論しました。こうして彼はAAメンバーであることが周知されている有名人の一人となりました。
彼は1969年に上院議員に選出されると、上院にアルコホリズム及び薬物中毒の小委員会(Sub-committee on Alcoholism and Narcotics)を設置する運動を行い、自らその委員長に就きました。この委員会は1969年7月に、アルコホリズムからの回復者を呼んだ公聴会を開きました。その中にはアカデミー賞女優のマーセデス・マッケンブリッジ や、全米アルコホリズム協議会(National Council on Alcoholism)を設立したマーティ・マン (1904-1980)や、AAのビル・ウィルソンが含まれていました。この努力は、包括的アルコール乱用およびアルコホリズム予防・治療・リハビリ法(Comprehensive Alcohol Abuse and Alcoholism Prevention, Treatment, and Rehabilitation Act of 1970, Public Law 91-616, 通称ヒューズ法)として結実しました。最後の最後で大統領が拒否権を発動しないように念入りにロビー活動も行われました。
この一連のAAの政治への関与について、12の伝統に反するのではないかと心配する人もいるでしょう。しかし、伝統10が禁じているのは「外部のイシュー」への関与です。AA自身のイシューであれば、当然AAは自らの利益を守るために繰り返し政治に関わってきました。ですから「AAは政治に関わらない」と単純に捉えてしまうのは12の伝統への誤解にほかなりません(しかしながら面倒が起きないように、そうした行動は「なかったこと」として歴史の中で消去されてしまうので、それがまるでAAが政治に関わったことは一度も無いかのような印象をもたらしています)。ただし、彼らがアノニミティ破りを行ったことについては、AA内部でもそれなりの非難は起きたようです。
このヒューズ法によって、政府機関として国立アルコール乱用およびアルコホリズム研究所(National Institute on Alcohol Abuse and Alcoholism, NIAAA)が設立され潤沢な予算が割り当てられました。NIAAAは各州に補助金を交付し、またアルコールの治療機関に事業費を提供しました。こうして、1970年代に公費助成によってアルコホリズムの治療を受ける人が急増しました。また、1972年には薬物乱用治療法(Drug Abuse Office and Treatment Act of 1972, Public law 92-255)が成立し、国立薬物乱用研究所(National Institute on Drug Abuse, NIDA)が設立されて、薬物嗜癖の治療プログラムへの助成が始まりました。20)
保険給付
もう一つの発端は、保険業界がアルコホリズムの治療に対して保険給付を行うようになったことです。それまでアルコホリズムの治療は保険の給付対象外であり、既往症がある人は保険加入を断られていました。アルコホリズムの治療を給付の対象とすれば、増大する負担によって保険システムが維持できないと考えられていたからでした。ところが1962年にはケンパー保険会社(Kemper Corporation )がアルコホリズムの治療に保険給付を行うグループ保険を発売しました。社長のジェームス・ケンパー(James S. Kemper, 1886-1981)は駐ブラジル米国大使も務めた人物ですが、自らがアルコホリズムから回復した経験から、アルコホリズムの治療を給付の対象にして治療意欲を喚起した方が、それが進行した結果として生じる多大な支払いに応じるよりも負担が少ないと考えたのでした。
実際に負担の減少が起こることが分ると、他の保険会社も追従し、1970年代には段階的に保険適用できる治療施設の範囲が拡大していきました。当初は滞在型(入院・入所型)のプログラムだけが対象でしたが、やがて外来プログラム(通所型)に対しても給付が行われるようになり、いくつかの州では給付を保険会社に義務づける法律を制定しました。21)
1980年代に入るとアディクション治療は「産業」と言える規模で拡大し、そのきっかけを作ったヒューズはそれを「アルコホリズム・薬物乱用産業複合体」と呼びました。1987年10月にNIDAとNIAAAが行った調査では、5,791の治療機関で、350,613人が治療を受けていました。参入者が増えるに従って市場競争が始まり、民間の治療機関は競争に打ち勝ってベッドを満床にし続ける必要に迫られました。その競争に敗れた施設が採った生き残り策が、アルコール・薬物以外の分野のクライアントの獲得でした。それが、性の問題や、摂食障害、共依存、そしてACの治療プログラムの増加をもたらしたのでした。(それはつまり保険会社がそうした人たちの治療への保険給付を受け入れたということであります)。
治療プログラムの量も、範囲も拡大したのは良いことのように思えますが、良いことばかりではありませんでした。治療プログラムに従事する人たちは、治療の結果よりも満床率や決算を気にするようになっていきました。美しい建物が建ち、認定証が飾られ、洗練された広報活動が展開されたものの、その背後にあるのは儲け主義で、上がった利益は治療プログラムの改善にではなく、昇給や株主への還元に回されました。極端な貧しさのなかで誕生したアディクション治療業界は、初めての経済的成功に酔ってしまい、警告は耳に届きませんでした。22)
やがて、保険会社や政府がアディクション業界の倫理観の欠如に疑問を持つようになり、1990年代前半には大きな経済的反動がやって来るのですが、それは次回取り上げます。
ともあれ、このように急増した治療施設は、アフターケアとして12ステップグループの利用を勧めました。結果として、AAやアラノンのメンバー数もグループ数も、1970年代から80年代にかけて急増しました(cf. 第2回の図)。AAは政治に関与した報酬を十分受け取りました。OAや性の問題のグループも(AAやアラノンほどでないにしても)この急増の恩恵を受けたはずです。そして、ACoAムーブメントも例外ではなく、大幅なミーティング数の増加が起きたことは上で述べました。
しかし、良い時代はいつまでも続きません。それは人生だけでなく、12ステップグループについても言えることです。だがまだしばらくは、良い時代の話を続けましょう。
共依存のグループ CoDAの始まり
アルコホーリクの家族の病理は1970年代にはパラ・アルコホリズム(para-alcoholism)やコ・アルコホリズム(co-alcoholism)と呼ばれていましたが、1980年代になって共依存(co-dependency)という概念に移行しました。いつ誰が共依存という言葉を使い出したのかははっきりしませんが、国際保健機関 (WHO)が1977年にアルコール中毒(alcoholism)という言葉をアルコール依存症(alcohol dependency)という言葉に変更したことを受けて、1980年前後にアメリカ各地で同時に使用が始まったと思われます。(cf. アルコホリズムからアルコール依存症候群へ)
この言葉の変更と同時に、対象とする範囲が薬物嗜癖を含むように拡大されました。また、共嗜癖(co-addiction)という言葉も使われましたが、WHOが嗜癖を依存と呼ぶように改めたことにより、共依存に一本化されていきました。
CoDA(Co-Dependents Anonymous, コーダ)は共依存者のための12ステップグループで、1986年にアリゾナ州フェニックスで最初のミーティングが開かれました。創始者はケンとマリー・R夫妻(Ken and Mary Richardson)です。その創始の物語は、CoDAの基本テキスト Co-Dependents Anonymous(通称CoDA Book)巻末の付録に “CoDA’s First Six Years”(CoDAの最初の6年間)として掲載されています。
二人は長年アルコールと薬物の問題からの回復を続けており、当時ケンは共依存の入所型治療施設のマネージャーとして働いていました。ケンにとっての悩みは、利用者が治療プログラムを終えて家に帰ると、出席できるミーティングがないことでした(アラノンは共依存概念が誕生する素地を作ったものの、アラノン自身はアルコホーリクの家族のためのグループであって、共依存のためのグループだとは主張していません)。そこで、1986年の夏に夫婦で話し合い、共依存のための12ステップグループを作ることに決めました。知り合いに声をかけたところ、賛同者がどんどん集まりました。二人は12のステップや12の伝統を共依存向けに書き換え、ミーティングで読む文書や、CoDAのロゴマークまで作ってミーティングに備えました。
はたして、10月22日の最初のミーティングには30人が集まりました。4週間後には100人を越えました。彼らは用意したミーティングスターターキットを治療を終えて家に帰る人たちに渡し、1年後には全米で120のミーティングが誕生していました。CoDAはさっそく、全国会議や理事会、私書箱や電話をそなえた全国オフィスといったサービス機構を整備していきました。6年後の1992年にはミーティング数は4,000に達しました。
なぜそのような急成長が可能だったのかに説明は要らないでしょう。背景にあるのは、共依存の治療プログラムを提供する施設やプロフェッショナルの存在でした。同時に進行した共依存概念の一般化(後述)によって、アディクションと無縁ながら同じような症状を持つ人たちを対象に含めることが可能になりました。これによりCoDAは依存症者の家族という枠組みにとらわれずに幅広い人々を対象とすることになりました。
CoDAが運が良かった(それとも先を見越していたのか?)のは、90年代前半にやってくるアディクション治療産業の大規模な崩壊以前に、全国的なサービス機構や文献などを整え終えたことです。そのおかげで、共依存の分野でドミナントな共同体として生き延びることができた、と言えるでしょう。
第13回でも述べましたが、CoDAの特徴は疾病概念を詳しく記述する代わりに共依存に五つのパターンを設け、それぞれのパターンごとに特徴のリストを提示しています。その五つとは:
-
- 否認のパターン – Denial Pattern
- 自己評価が低いパターン – Low Self-esteem Pattern
- 服従のパターン – Compliance Pattern
- コントロールのパターン – Control Pattern
- 回避のパターン – Avoidance Pattern
そして、すべてのパターンの根底にあるものが、共依存的に他者をコントロールしたり操作しようとする、あるいは人や状況を避けようとする試みであり、そうした試みは、本来ハイヤー・パワーによって満たされるべき内的ニーズを自分で満たそうとした結果だというのです。23) 24) (これはこれで一つの疾病概念だと言えるのかもしれない)
CoDAはグループ数などを発表していませんが、世界全体のメンバー数は万の単位になっていると思われます。日本では2000年に最初のCoDAミーティングが行われ、現在国内で約30グループが活動しています。
共依存概念の一般社会への浸透と変質
前回から見てきたように、共依存はアディクション臨床の現場での必要から作り出された概念です。それを精神医学の中に位置づけようとする(つまり正式な精神疾患として定義しようという)試みも行われました。精神科医のティメン・サーマック(Timmen L. Cermak)は1986年に発表した論文のなかで、共依存症をパーソナリティ障害の一つとして位置づけた診断基準を発表し、保険適用の正当性を主張しました。25) 26)
しかし、事態は逆の方向へと動きました。それは皮肉なことに、共依存という概念が一般社会に浸透していったことが理由でした。1987年にはメロディ・ビーティー(Melody Beattie, 1948-)が Codependent No More: How to Stop Controlling Others and Start Caring Yourself (『共依存症 いつも他人に振りまわされる人たち』(1999))27)を出版し、300万部を超えるベストセラーとなりました。翌年にはジョン・ブラッドショウ(John Bradshaw, 1933-2016)が Healing the Shame that Binds You を出版し、これもミリオンセラーとなりました。さらに公共放送サービス (PBS)で彼がホストを務めるテレビ番組が人気を得たことで、共依存という概念は広くアメリカ一般社会に知れ渡ることになりました。4)
ビーティーは自身がアルコール・薬物嗜癖の回復者であり、夫がアルコホーリクでした。ブラッドショウも父親がアルコホーリクであり、自らもアルコホーリクでした。にもかかわらず彼らは著書の中で、共依存は家族の中にアディクションがなくても誰にでも起こりうることだと書きました。それは彼らが主張を始めたことではなく、すでに共依存について様々なプロフェッショナルが様々な定義を行っており、事実上「なんでもあり」になっていたという背景がありました。この「誰でも共依存になりうる」という一般化が行われたことが、この概念が広く社会に浸透した理由だったのでしょうが、疾病であり保険治療の対象とすべきという主張にとっては逆風となりました。
1987年には臨床心理学者のアン・ウィルソン・シェフ(Anne Wilson Schaef, 1934-2020)が When Society Becomes an Addict(『嗜癖する社会』(1993))28)を出版し、そもそも私たちの社会が嗜癖的なのだと主張しました。その嗜癖的な社会に適応して生きている私たちは誰もが何らかの嗜癖を抱えているのであり、その嗜癖には、物質への嗜癖、行為への嗜癖、そして人間関係への嗜癖の三種類があるとしました。そこから、依存には、
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- 物質への依存(アルコールや薬物など)
- 行為への依存(ギャンブルやセックスなど)
- 人間関係への依存(恋愛や共依存など)
の三種類がある、という主張が盛んにされるようになりました。
しかしこの「この社会では誰もが共依存だ」という考えや「共依存は人間関係への依存だ」という考えは、12ステップグループでは採用されませんでした。それは当然で、CoDAやACAにおいては、共依存はあくまで病気(病気とは一部の人がなるもの)ですから、誰もが共依存だという一般化は受け入れようがありません。また共依存は他者をコントロール・操作しようとする試みであり、何らかの人間関係に依存しているという理解でもありません。12ステップグループにおいては、共依存とはパラ・アルコホリズムだという初期の考えが保たれているのです(その例外は下記のACoD)。
その後、アンソニー・ギデンズ (1938-)などの社会学者が共依存概念を扱うようになると、その議論はますますアディクションから離れていき、共依存は「100人いれば100通りの定義がある」言葉として意味を持たなくなり、結果として臨床の現場ではうち捨てられた過去の術語となってしまいました。現在、この言葉を使っているのは一部の社会学者と、共依存やACを扱う12ステップグループだけといっても言い過ぎではないでしょう。
機能不全家族のACたち
1980年代に共依存概念がアディクションとは無縁の人たちへと拡大されたように、同じ時期にアダルトチルドレン・オブ・アルコホーリックス(ACoA)という概念も、親がアルコホーリクやアディクトではない人たちを含むように範囲が拡大されました。
ACoAムーブメントは、親がアルコホーリクではなくても同じような問題を抱えた人たちの存在に最初から気がついていました。ただ、ムーブメントがアラノンACとして活動していた時期には、その人たちを包摂することは無理でした。
カリフォルニアのACoAムーブメントの初期には、オーバーイーターやギャンブラーの子である人たちがミーティングに現れており、彼らを迎え入れることには抵抗がありませんでした。29) むしろそれがアラノンからの分離の促進材料の一つとなりました。しかし、ACA共同体が設立されると風向きが変わり、(アラノンであることの制約はなくなったはずなのに逆に)親がアルコホーリクである人への限定が強くなりました。クラウディア・ブラックは、その理由をビッグレッドブックの序文の中でこう説明しています:
・・歴史のその時点で、資源を一般化する(資源を嗜癖のない家族にまで広げて提供する)ことは、まだ芽生えはじめたばかりの種を薄めることになりかねませんでした。30)
それでも、この機能不全の家庭出身のACたち(Adult Children of Dysfunctional Families, ACoD)の回復への要求は次第に強くなっていきました。それがACのための12ステップの初めての文献を作り出しました。
1985年にロン・H(Ron Halvorson)とバル・D(Valerie Deilgat)の二人がACoAのミーティングで出会いました。彼らは他の12ステップグループのミーティングにも出ていて、ACのための12ステップの文献が存在しないことに気がつきました。
そこで彼らのグループのメンバーは、12ステップの実践の中で気がついた考えや感情を記録し始めました。そして1986年にはフレンズ・イン・リカバリー(Friends in Recovery)という名義で、二冊の本を書き上げました。一冊は The 12 Steps for Adult Children、もう一冊が The 12 Steps – A Way Out という祈りの本でした。そして二人は翌87年にこの二冊を出版するためにサン・ディエゴ で Recovery Publications, Inc.(RPI)という出版社を立ち上げました。この二冊はその後の30数年で60万部以上を売り上げるロングセラーとなりました。同社は他にも12ステップ関連の書籍を出版しました。31) 32)
そのような事情で、The 12 Steps for Adult Children が、最初に出版されたAC向けの12ステップ文献となりました。
この本はACoA・ACoDの両方を対象として書かれている点が特徴です。初期の頃は増刷ごとに文章の修正が行われましたが、1989年と1996年の2回、ロンたちの霊的な回復の進展を反映させるために大幅な改定を行いました。ここでは、1989年版を第二版、1996年版を第三版と呼ぶことにします。
この本に掲載された12ステップは以下のようなものです:
- われわれはアディクションの影響(the effects of addiction)に対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。
- 自分自身より偉大なカが、われわれを全体性(wholeness)に戻してくれると信じるようになった。
- われわれの意志といのちの方向を変え、自分で理解している神、ハイヤー・パワーの配慮にゆだねる決心をした。
- 探し求め、恐れることなく、生き方の棚卸表を作った。
- 神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた。
- われわれの無益な振る舞いを取り除くために、神と協力して歩む心の準備が完全にできた。
- 自分の短所を変えるのを手伝ってください、と謙虚に神に求めた。
- われわれが傷つけたすべての人の表をつくり、そのすべての人たちに埋め合わせをする気特になった。
- その人たち、または他の人びとを傷つけない限り、機会あるたびに直接埋め合わせをした。
- 自分の生き方の棚卸しを実行し続け、誤ったときは直ちに認めた。
- 自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、神の意志を知り、それだけを行っていく力を、祈りと黙想によって求めた。
- これらのステップを経た結果、霊的に目覚め、この話を他の人たち(others)に伝え、また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。33)
日本のACAが出版している『ACのための12のステップ』(1998)はこの本の第二版(1989年版)を翻訳したものです。その経緯や、日本のAC共同体については次回取り上げます。上の12ステップはその本に掲載されている訳です。
ステップ2の正気(sanity)が全体性(wholeness)に変更されているところが目に付きますが、どちらも同じ意味ですし、1996年の第三版で正気に戻されました。
そのような細かな点を除けば、1984年にカリフォルニアのACA共同体が採用した12ステップも、このロンたちの12ステップも、基本的にはAAの12ステップをそのままAC向けに適用したものです。
さらに、この本には「ACに共通の感情と行動」というセクションがあります(pp. 18-20)。そこには13の項目が書かれていますが、そのうち9つは、トニー・Aが書いたランドリーリストと共通しています(対比表をwikiに掲載しました)。
ACoAとACoDの文化の違い
このように、ACA共同体の12ステップとロンたちの12ステップの共通性、さらにランドリーリストと「共通の感情と行動」の共通性から、ACoAの文化とACoDの文化には大きな違いが無いと言えます。しかし、一つの相違点があることを指摘しておかなければなりません。
「ACに共通の感情と行動」は、ランドリーリストの14の項目のうちの4項目を採用しませんでした。そのなかで最も重要なのは自らがパラ・アルコホーリックであることを認める13と14です。これはACoDの場合には親がアルコホーリクではないのだから、外して当然と思われるかも知れません。
しかしそれによって、私たちは親たちと同じになってしまった(we have become our parents)というACoAムーブメントが持っていた基本的で重要なメッセージは放棄されました。「これらの特徴は両親が持っていたもので、自分たちはそれを受け継いだのだ」といった表現もロンたちの本の中にはありません。それは、ACoAムーブメントの後継者である現在のACA共同体が、自分たちが両親と同じになったことや親を内在化させたことの説明にビッグレッドブックの一章を割いて強調しているのとは対照的です。34)
ではACoDの文化では、この「特徴」はどこから生じてきたと説明しているのでしょうか? 『ACのための12のステップ』の序文では、
わたしたちが現在持っている態度や感情や行動の仕方は、幼い頃に経験したモデルやメッセージの直接の結果です。わたしたちは混沌の中で育ったので、適切な人間関係や意志決定の技術、あるいは原因と結果を認識することの価値――全ての行動は結果を伴うということ――を学びませんでした。35)
と、それが子供の頃に不適切な養育を受けたからだという定番の説明になっていて違いは見受けられません。しかし、それを大人になっても手放せないでいる理由については、次のように説明しています:
嗜癖的な行動とは、強迫観念・強迫行動からなる障害(obsessive-compulsive disorder)です。内的な喪失感あるいは空虚感を埋めるために、強迫観念ないし渇望が、人間関係やアルコールや食べ物や薬物やセックスやギャンブルなどを、駆り立てるように人に使わせるのです。36)
つまり、ロイたちは、ACとは人間関係への嗜癖(あるいはある種の感情や行動への依存)であり、ACが「ACに共通の感情と行動」を手放せずにいるのはそれに嗜癖しているからだ、としているのです。これには明らかに、上述の1980年代の共依存概念の変化が反映されています。また、ACの問題は他のアディクションと同じ compulsion-obsession モデルが当てはまる嗜癖だと捉えていることがわかります。
シンプルにまとめると、ACoAの文化では自分を親と同じパラ・アルコホーリックと捉え、ACoDの文化では(親は依存症者ではなかったかもしれないが)自分はある種の依存症者になったと捉える、という違いが生じました。パラ・アルコホリズムとはアルコホーリクが持つ自己中心性に自分を同化させたということなので、自分が嗜癖者や依存症者になったとは捉えません。一方でACoDは自らが嗜癖者・依存症者になったと捉えるのです。どちらも共依存という言葉を使っていても、その意味するところには違いがあります。
ACoAムーブメントやACA共同体がトラウマやPTSDに着目しているのに対して、ロンたちの本はそこを取り上げていないことを指摘する人もいます。しかし、上述のようにACA共同体はトラウマやPTSDという言葉を「感情の抑圧」を指して使っており、感情の抑圧についてはロンたちもページ数を割いています。その点では違いがありません。虐待・ネグレクト・トラウマ・PTSDといった言葉を使うかどうかは用語の選択の問題であり、違いを論じるためには内容を検討せねばなりません。実際には『ACのための12のステップ』にも数は少ないながらトラウマという用語が使われています。
このようにして、共依存概念の一般化に呼応するように、ACoA概念がACoD概念へと拡大されました。当時はACA共同体が純化主義に傾いていた時代でもあり、ACoDの人たちは自分たちのACグループを作り始めました。1980年代から現在まで活動を続けているグループは多くはありませんが、Adult Children Anonymous で検索して見つかるアメリカ・カナダのグループは、おおむねACoDのグループだ(った)と思われます。
こうして、1980半ば以降、その存在は不明瞭ながらACoDムーブメントが生じてきたと考えられるのです。
70年代~80年代の動きを視覚化
話が長くなりましたので、前回の70年代から今回の80年代までを図にまとめてみました。
70年代に入ってACoAという概念が作られると、まずアラノンACのグループが誕生し増加していきました(オレンジの線)。1978年にトニー・Aが新しい活動を模索するなかでACoAムーブメントが始まりましたが、アラノンからの分離は数年かけて進んでいきました(オレンジから青への移行)、1984年にカリフォルニアでACA共同体が設立されたことで、分離が決定的になりました。しかしこのACA共同体もACoAムーブメント全体を取り込めていたわけではなく、他にもACoA/ACAを名乗る共同体やグループが存在しました(複数の青線で表現)。
80年代後半になると共依存の共同体CoDAが作られ(紫色の線)、また機能不全家庭出身のAC(ACoD)のグループできはじめました(複数の緑色の線)。それを象徴する出来事が1987年の The 12 Steps for Adult Children の出版でした。
この後、それぞれの流れがどうなっていくのか、大変思わせぶりな図になっていますが、次回は激変の90年代を取り上げます。
- ウィリアム・L・ホワイト(鈴木美保子他訳)『米国アディクション列伝 アメリカにおけるアディクション治療と回復の歴史』, ジャパンマック, 2007, p. 309[↩]
- 英語版Wikipediaにある情報。出典として Lily Collet, “The ACOA marketplace”, The Family Therapy Networker, January/February 1990 が示されているが入手できていない。[↩]
- ACA, Early History of ACA, ACA WSO, 2015.[↩]
- loc. cit.[↩][↩]
- ACABRB, p. xli-xliii.[↩]
- ACABRBにも「問題」がランドリーリストから改作されたものだという記述がある — p. 668。[↩]
- ACA Greater Wester USA Region, ACA WSO Early History (gwuregion.org), 2022.[↩]
- Early History of ACA.[↩]
- ACABRB, pp. 68-71.[↩]
- 現在の「ACAの12ステップ」(ACABRB, p.665)を元に、そのステップ1から「やその他の家族の機能不全」を削除した。[↩]
- この委員会のリーダーであるマーティ・Sは1980年代に三つのアイデンティティ文書を作成したが、それらはすべてビッグレッドブックに収録されている — 1984年の「ACAプログラム―どう効くのか(The ACA Program and How It Works)」(pp. 91-95)、1986年の「分離を通して健全さを取り戻す(Finding Wholeness Through Separation)」(pp. 96-102)、1987年の「ACAにおけるサービスの重要性(The Importance of Service in ACA)」(pp. 399-410)。[↩]
- ACABRB, p.93 — Post-traumatic stress is the tension of unresolved grief following the loss of fundamental security.[↩]
- ACABRB, pp.705-715.[↩]
- ACABRBは、ACAが西海岸に、ACoAが東海岸と中西部地方に偏在していたとしている(p.xli)。[↩]
- Early History of ACA.[↩]
- White L. W, Vulnerability and Resilience of Children Affected by Addiction: Career Reflections of Dr. Claudia Black (Williamwhitepapers.com), 2015, p. 4.[↩]
- ホワイト, p.309.[↩]
- JUST(日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン)の用語集は、アダルトチルドレンの特徴の作者をウォイティッツだとしている。[↩]
- Palm Beach Instituteは1970年に設立された有名な治療施設だったが、2023年に閉鎖されたようだ。[↩]
- ホワイト, pp. 279-281.[↩]
- ホワイト, pp. 283-285.[↩]
- ホワイト, pp. 290,295-296.[↩]
- CODA, 『CoDA ミーティングハンドブック』, CODA-JAPAN, 2019, 21-32.[↩]
- CoDA, CoDA Book, CoRe Inc, 2012, ch. 2.[↩]
- 小西真理子『共依存の倫理―必要とされることを渇望する人びと』, 晃洋書房, 2017, pp. 47-49.[↩]
- ホワイト, p. 309.[↩]
- メロディ・ビーティー(村山久美子訳)『共依存症 いつも他人に振りまわされる人たち』, 講談社, 1999 — この本はCoDAが自分たちの基本テキストを出版する1995年まで事実上CoDA版ビッグブックとしての役割を果たした。[↩]
- アン・ウィルソン・シェフ(斎藤学監訳)『嗜癖する社会』, 誠信書房, 1993.[↩]
- ACA WSO Early History.[↩]
- ACABRB, p.xx.[↩]
- 2023年にRPIのサイトはメールアドレスだけをトップページに掲載したシンプルなものに変更された。事業が継続されているのかどうかは分らないが、同社の書籍のKindle版はまだAmazonで購入できる。[↩]
- RPI, About Us – Corporate information (rpipublishing.com), https://rpipublishing.com/about-us.html すでにリンク切れである。[↩]
- AC12, pp. 14-15.[↩]
- ACABRB, pp. 23-58.[↩]
- AC12, p.12.[↩]
- AC12, pp. 5-6.[↩]
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