ビッグブックのスタディ (39) ビルの物語 10

二番目のパートに入る

第一章「ビルの物語」の二番目のパートに入ります。具体的には、12ページの13行目から19ページの8行目までです。このパートには、アルコールの問題を抱えていたビルに解決が示されるシーンが描かれています。

現在地・目的地・道程

ビル・Wはすでにステップ1を終えていましたBB, pp.11-12)。ステップ1は問題を知ることでした。彼は1933年秋の入院の時にシルクワース医師からステップ1の情報を伝えられました(p.10)が、その意味を受け入れるためには、さらに二回の入院が必要でした。これによって彼は自分の現在地を知りましたが、目的地を知らなかったので、どこを目指して良いのか分からず途方に暮れていたのです。これが一番目のパートの概要です。

二番目のパートでは、彼に解決(=目的地)の情報がもたらされます。ところが、ビルはその解決が気に食わず、抵抗しました。彼の抵抗の理由と、その反発をどう乗り越えていったかを見ていきましょう。

そして、このパートで最も大事なことは、解決とは何かステップ2を私たちが知ることです。多くの人が、目的地をよく知らないままに12ステップに取り組み、途中で迷子になって目的地にたどり着けずに終わっています。それほどにステップ2の情報は重要なので、ビッグブックはステップ1と同じぐらいのページ数をステップ2に費やしています。

学生時代の友人エビー

12ページの最後の段落です:

 寒々とした十一月が終わろうとしていた。1)

二番目のパートの始まりです。ビルが休戦記念日(11月11日)に飲み始めてから、二週間ほど経っていました。

 ぼくのもの思いは電話の音で中断された。学生時代の友人が、元気そうな声で訪ねてもいいかどうか聞いてきた。2)

Ebby Thacher
エビー・T from Ebby in Exile

この「学生時代の友人」が、ビルのスポンサーとなるエビー・Tです。すでに第4回第31回で少しだけエビーについて触れましたが、今回は二人が友人になった事情と、再会するまでエビーがどんな人生を送ってきたかを紹介します。

ビル・Wは、バーモント州 のドーセットDorsetという田舎町で生まれ育ちました。ここはニューヨーク市から北に約300Kmほど離れた山の中です。ドーセットの南隣にマンチェスターManchesterという少し大きな町があり、ここは都会の裕福な人たちが別荘を構え、長い夏の休暇を過ごすリゾートタウンになっています。下は現在のマンチェスターの別荘地を空撮した動画です。

マンチェスターの地元の人たちは、別荘族のことを「サマーピープル」と呼んでいました。ロイスの一家やエビーの一家もマンチェスターに別荘を構えるサマーピープルであり、二人は子供の頃から毎年夏の長い期間をマンチェスターで過ごしていました。

ビルの子供時代については第31回で触れましたが、彼はマンチェスターにあるバー・アンド・バートン校Burr and Burton Academyという全寮制の学校に進学しました。月曜日の朝にドーセットから列車で学校に向かい、金曜まで寮にとどまって、週末は列車で家に戻って過ごすという学生生活でした。

ビルがエビーと知り合ったのも、ロイスという伴侶を得たのも、マンチェスターというリゾートタウンがあればこそでした。

エビーの一家(サッチャー家)は、ニューヨーク州の州都オールバニではよく知られた名家でした。エビーの祖父は、オールバニの市長を務め、鉄道車輪を鋳造する大きな鋳物工場を創業しました。その会社はエビーの父親に引き継がれ、伯父が市長になりました。

エビーは五人兄弟の末っ子でした。兄たちはみな学業もスポーツも優秀で、後に市長になる兄ジャックは地元の法律学校に進みましたが、他の兄たちはプリンストン大学 を卒業しました。ところがエビーはあまり優秀ではなかったようです。

そんなエビーを心配した父親は、彼を一年間マンチェスターのバー・アンド・バートン校に山村留学?させました。それがビルとエビーが学友になったいきさつです。

ところが山村留学を終えてオールバニに帰ると、エビーの通っていた名門校はバー・アンド・バートン校で履修した単位を認めてくれませんでした。エビーはそのことが面白くなく、学校で行われた軍事演習競争で優勝したお祝いに、市内のホテルのレストランで大酒を飲みました。そのことが校長たちの耳に入って、エビ-は退学になってしまいました。

高校を中退したエビーは父親の会社で働き始めました。しかし、若くしてすでにアルコールの問題が始まっており、昼間から酒臭い息をしていることを守衛に咎められたエピソードが残されています。

数年後、父親が工場を閉じました。モータリゼーション の時代が始まり、鉄道車輪の需要が少なくなったからでした。しかし、倒産させたわけではないので一家は相変わらず裕福で、兄ジャックJohn Boyd Thacher II, 1882-1957)が市長になったのもこの頃です。エビーはジャックの家に世話になりながら、保険や株のセールスマンをしていましたが、あまり仕事はせずに昼間から酒を飲む毎日でした。

マンチェスターに放逐されたエビー

1932年にニューヨーク州知事だったフランクリン・ルーズベルト (1882-1945)が大統領選に出馬することになりました。すると州知事の椅子が空きますから、政治家としてステップアップを狙っていたジャックにとってはまたとないチャンスでした。州知事選に出馬するためにはまず、民主党内の予備選に勝ち残らないとなりません。なのに身内である弟が酒で問題を起こしてばかり、というのはどうも都合の悪いことでした。そこで一家で相談した結果、エビーはマンチェスターへと追いやられてしまいました。

それから二年間、エビーは亡くなった父親の遺産で酒を飲んで過ごしていました。(同じ頃、ニューヨークではビル・Wがタウンズ病院に入院したり、妹夫婦のバーモントの農場に転地療養に来たりしていましたが、この時期にはビルとエビーに接触はなかったようです)。その金も尽きる頃、エビーはオックスフォード・グループの人たちと接触しました。

Roland Hazard
ローランド・ハザード, from Find A Grave

マンチェスターでエビーを助けたオックスフォード・グループのメンバーは三人でした。その一人はローランド・ハザードという、ビッグブックの第二章に「アメリカの実業家」として登場する人物です。アルコホーリクだったローランドは、助けを求めてチューリッヒ に渡り、有名なカール・ユング医師の治療を受けました。ローランドについて詳しい話は第二章の当該部分で取り上げますが、アメリカに戻った彼は宗教的環境に身を置くべきだというユングの勧めにしたがってオックスフォード・グループに加わり、1933年から34年にかけてはバーモント州に滞在して、アルコホーリクを助ける活動をしていました。彼によって助けられた人物の一人がセブラ・グレーブス(Cebra Q. Graves, 1898-1979)という若き弁護士でした。

もう一人、以前からローランドの友人だったシェップ・コーネル(Francis Shepard Cornell, 1899-1985)というニューヨークの株式ブローカーもオックスフォード・グループに加わっていました。

このローランド、セブラ、シェップの三人は、いずれもアルコールの問題を抱えていましたが、このうちアルコホーリクだったのはおそらくローランドだけで、他の二人は内面の鬱屈が大酒となって現れていたという印象のエピソードしか残されていません。しかし、オックスフォード・グループはAAと違ってアルコホーリクに特化したグループではありませんでしたから、そこは問題ではありませんでした。

1934年7月のある日、このローランド、セブラ、シェップの三人が、バーモントにあったローランドの別荘のプールでくつろぎながら、オックスフォード・グループのメッセージをどうやって運ぶか相談をしていました。そこでセブラが、友人であるエビーがマンチェスターで飲んだくれているという噂を思い出し、様子を見に行こうと他の二人を誘いました。

結果としてセブラとシェップの二人が、エビーのいる別荘を訪れました。案の定エビーは飲んだくれていました。二人はエビーをレストランに連れ出して食事をさせ、オックスフォード・グループの話を聞かせました。それを聞いたエビーは、バー・アンド・バートン校に通っていたときに下宿していた牧師の家で聞かされた話を思い出して感銘をうけたものの、二人が帰った後も飲み続けていました。

逮捕されたエビー

Thacher-home
サッチャー家の別荘, from Ebby in Exile

そして、エビーは何を思ったのか、別荘の外壁のペンキを塗り直すことを思いつきました。自分で塗ろうとしましたが、酔っ払っているのではしごを二、三段しか上れず、高い家の上までは塗れませんでした。そこで(おそらくは兄に金をだしてもらって)職人を頼み、なんとかペンキを塗り上げました。

その後、鳩が何羽かやってきてエビーの家の屋根に留まりました。エビーはせっかく塗ったペンキが鳩の足跡で汚されてはたまらないと思い、ショットガン を持って庭に出ました。雨が激しく降っている日で芝生はとても滑りやすく、エビーは地面に座り込んだまま、鳩を追い払おうと発砲しました。酔っ払いが銃を乱射した事件は、もちろん近隣から警察に通報されました。

翌日になって警官がやってきましたが、エビーは寝ていて対応せず、警官たちは押し入って逮捕するほどではないと判断して引き上げていきました。しかし彼が公共の場所に現れたら勾留する命令が出されていたようで、彼は酔っ払って町に出たところを逮捕されてしまいました。

すでにエビーは公衆酩酊public intoxicationの罪で二回逮捕されていました。当時のバーモント州の公衆酩酊に対する処罰は厳しいもので、三回逮捕されると罰金刑では済まず、半年収監されることになっていました。エビーの場合にはブラットルボロー・リトリートBrattleboro Retreatという精神病の人の収容施設に送られる可能性が高かったようです。

ビルは、

うわさでは、彼はアルコール性の精神異常で精神病院に入れられたはずだった。やつはどうやって逃げ出したのだろうと思った。2)

といぶかっていますが、おそらくこの公衆酩酊による逮捕と裁判の噂がビルの耳にも入っていたのでしょう。

もちろんエビーは刑の執行を猶予されたからこそ、ニューヨークにやってきてビルに会いに来れたのでした。だがビルは、そんなエビーの事情は気にかけていませんでした。ビルは酒を飲む口実ができたことを喜んでいました。

病気が進行したアルコホーリクの多くは泣きながら酒を飲んでいたと言います。酒がやめられない自分がふがいなく、辛くてたまらないのです。なのに体が酒を要求して飲まずにいられません。そんな自分が情けなくて辛いわけですが、そんな状態だからこそ、大っぴらに酒が飲めるチャンスは大歓迎なのです。ビルも旧友の訪問を諸手を挙げて歓迎しました。

実はそれほど親しくなかった

ところで、ビルはエビーのことを「学生時代の友人」としていますが、実際にはそれほど親しくはなかったようです。ロイスによれば、10代の頃のビルはエビーのすぐ上の兄ケン(Kenelm Roland Tacher, 1892-1966)と親しく、エビーはロイスの弟ロジャース(Rogers Burnham, 1894-1970)と親しかったのだそうです。3) ビルが成人後に一緒に酒を飲んだのはケンだったので、ロイスによればビルはケンとエビーを間違えていると言うのです。4)

たぶん、ビルにとってそんなことはどうでも良かったのでしょう。一緒に酒を飲める相手であれば、それがケンだろうがエビーだろうが気にしなかったでしょう。

Airport albany ny 1930s

それでも、二人は以前に一緒に大酒を飲んだ経験が少なくとも一回ありました。それはこの再会より6年近く前の、1929年1月の終わりのことでした。ビルはニューヨークから出張でマンチェスターへ向かう途中で、オールバニに立ち寄り、エビーに電話をかけて一緒に飲もうと誘いました。エビーは当時オールバニ飛行場で曲芸飛行をやっていた飛行士たちと親しくなっており、ビルとエビーは飛行士たちのパーティに招かれてひと晩飲み明かしました。ビルはそのままマンチェスターに鉄道で向かうつもりでしたが、エビーが飛行士の一人に飛行機に二人を乗せてくれるように頼みました。ビルによれば、そのために法外な料金を支払ったそうです。

こうして飛行士を含めて三人の男が、酒をラッパ飲みしながら、飛行機でマンチェスターへ向かいました。マンチェスターの飛行場はできたばかりで、オールバニから飛行機がやってくると知らされた人たちは歓迎委員会を組織し、楽隊を伴って飛行場に集まっていました。着陸したビルたちは、その歓迎に応えなければならなかったのですが、酔いすぎていて地面に倒れ込み起き上がることさえできませんでした。5)

ぼくはただ一緒に過ごした日の気分をもう一度取り戻すことばかり考えていた。ぼくたちは、酒盛りの締めくくりに飛行機をチャーターしたことがあったっけ。2)

このような大変なトラブルを起こしておきながら、この話が懐古的に語られているのは、二人にとって良かった時代の思い出だからでしょう。ビルは株の大暴落によって落ちぶれる前で羽振が良く、エビーも父親がまだ生きていた気楽な時代の出来事でした。これが二人で一緒に飲んだ唯一の経験でした。

アイデンティフィケーションの大切さ

それにしても、ビルが1929年にたいして親しくないエビーのところにわざわざ立ち寄って、一緒に酒を飲もうと持ちかけたのはなぜでしょうか?

アルコホーリクはだんだん普通の人と一緒に飲めなくなっていきます。普通の人とは飲む量も飲むペースも違いますから、人と一緒に飲むとそのことが際立ってしまいます。アルコホーリクは自分が異常な酒飲みだとは意識したくありませんし、まして飲み過ぎを咎められるのも面白くありません。かといって、一人で飲むのも淋しいのです。だから、自分と同じような酒飲みを見つけて一緒に飲むようになりますBB, p.220)。ビルは、エビーが飲んだくれになっているという噂を聞いて、一緒に飲むのに相応しい相手だと思ったのでありましょう。

このような経験を通じて、アルコホーリクは自分の気持ちは普通の人(酒を飲まなくても平気な人たち)には決して分からないという考えを持つようになっていきます。アイデンティフィケーションができる(同一であると見なせる)相手の言葉でないと心に響かなくなります。ビルは、自分と同じアルコホーリクであるエビーから伝えられたからこそ、回復のメッセージを受け取ることができた、と繰り返し語っています。「ビルの物語」の二番目のパートは、一人のアルコホーリクがもう一人のアルコホーリクに話をする(one alcoholic talks with another)というAAの重要な要素が描かれているのです。

今回のまとめ
  • 「ビルの物語」の二番目のパートでは、ビル・Wに解決(ステップ2)が示される場面が描かれている。
  • 解決とは、私たちが12ステップによって目指すべき目的地を示している。
  • 12ステップに取り組んでも、目的地を分かっていないために途中で迷子になる人は多い。
  • エビー・Tはオックスフォード・グループの人たちの手助けを受けて回復していた。
  • ビルはエビーと一度だけ一緒に飲んだだけだったが、エビーが自分と同じ絶望的なアルコホーリクであることは知っていた。
  • アルコホーリクの心には、アイデンティフィケーションができる(自分と同じだと見なせる)相手の言葉しか届かなくなっている。

次回は、エビーの話の中身に入っていきます。


  1. BB, p.12.[]
  2. BB, p.13.[][][]
  3. Mel B., Ebby—The Man Who Sponsored Bill W., Hazelden, 1998, p.23.[]
  4. ibid., p.36.[]
  5. PIO, pp.83-84.[]

2024-04-05

Posted by ragi