ビッグブックのスタディ (86) 私たち不可知論者は 13
理性への依存
前回は理性 についての長い話でした。理性とは、論理的に考える能力のことです。これは人間が生まれつき持っている能力の一つですが、他の能力と同じように鍛えなければ使えません。啓蒙思想 家たちは、人は教育を受けることで理性を正しく使えるようになり、宗教や王権の支配を受けずに自由に生きられるようになる、と考えました。
もとより、理性は何が善で何が悪かを判断する力(つまり良識や良心)でもあるとされています。中世までは、そのような判断力は支配層と一部のエリートだけが持っていれば良かったのですが、人間が自由に生きる近代以降になると、一人ひとりが自分の理性を使って善悪を判断しなければならなくなりました。1)
欲望に流されて自堕落な暮らしを送るダメ人間にならないように、理性を正しく使って自分を律する――つまり自律がとても大事なことだとされたのも、啓蒙の時代の特徴です。人々は自分をコントロールできなくなることを恥じるようになりました。
第一章でビル・Wが断酒を固く誓ったのに再飲酒してしまったときに、自分が狂ってしまったのではないかと恐怖したのも(p.8)、第二章で再飲酒したローランド・Hが「自分をコントロールする能力を取り戻したい」と切望したのも(pp.39-40)、自律を失ってしまうことへの恐れと焦りがあったからです。
あなたがアルコホーリク(アディクト)ならば、もう二度と飲まない(やらない)と固く決心をしたのに、再飲酒(再使用)してしまった時に感じた悔しさと自信喪失を思い出すことができるでしょう。それほどまでに、私たちは自分の理性を頼りにし、理性に依存しているのです。言い換えれば、理性以外に何を頼れば良いのか知らずにいるのです。
だがステップ1は、「アルコホリズムはあなたの理性を超えた問題だ」とキッパリ言います。さらにはステップ2では、アディクション以外の人生の問題も理性の力では解決できないと言い出すのです(p.76)。つまり、私たちは回復するためには、自律へのこだわりを捨てる必要があります。――外から見れば、回復した人は自律を取り戻したように見えるのですが、内面では自律を手放している――少なくとも手放そうと努力しているのです。
私たちは、自分の理性(良識・良心)を使って生きていますし、それは役に立っています。しかし、回復するためには、理性には限界があることを認め、どこまでも理性(良識・良心)を信じそれを頼っていくという生き方をやめなければなりません。もちろんそれは、簡単にできることではありませんが。
ビッグブックに戻ります。78ページの真ん中の段落です:
私たちは理性でここまで来られたことに感謝していた。だがなぜか、対岸に上陸するための一歩を踏み出すことができなかった。理性だけに頼って長いこと何とか持ちこたえてきた私たちは、その頼みの綱を失いたくなかった。2)
We were grateful that Reason had brought us so far. But somehow, we couldn’t quite step ashore. Perhaps we had been leaning too heavily on reason that last mile and we did not like to lose our support.3)
日本語訳だと最後の一歩みたいに訳されてますが、英語版では last mile、つまり最後の1マイルです。マイルと一歩じゃずいぶん違う気がするのですが・・・。ま、それはともかく、もう一度この橋の写真に登場してもらいましょう。
これはフランスの有名なサン・ベネゼ橋 で、もとは対岸まで橋が架かっていたのですが、一部が洪水で壊れたまま再建されず、途中までしか架かっていない橋として観光地になっています。理性の橋の説明に便利なので使わせてもらいます。
不可知論者は信仰を得ようとするときにも、理性を頼ろうとします(理性への依存)。しかし、理性の橋は川の途中までしか達していません。その突端まで行って、ここから先はどうやって進めば良いのか分からずに困っている――理知的にステップを解釈しようとして、この突端から先に進めなくなっている人は多いのです。「あまりに理性に頼りすぎている(leaning too heavily on reason)」がために、その支えを失うことが怖いのです。だって、こっから先に足を踏み出したら、どうみたって川へ落ちちゃうじゃないか!、と。
信仰を持つ能力は誰にでもある
それは自然なことである。そのことをもう少し詳しく考えてみよう。私たちは、そうとは気づかずに、実はある種の信仰によって、いま立っているところまで導かれたのではなかったか。つまり、自分の理性の力(reasoning=論理的思考)を信じてきたのではないか。自分の考える力(ability=能力)に自信を持っていたのではなかったか。それが信仰でないのなら、いったい何だろう。そう、私たちは信じてきた。情けないほど「理性の神」に忠実だった。私たちは気づいたのだ。何かのかたちの信仰はいつも私たちにはあったのだと。4)
不可知論者・無神論者は、自分には信仰を持つことは不可能だと言うわけですが(p.65)、実際には自分の理性の力、自分の論理的に思考する能力を神として信じ崇めているのです。
そして、自分たちがいろいろなものを崇拝してきたことにも気づいた。5)
そして人は、自分の理性だけでなく、他にも様々なものを信じながら生きています。その例として、この段落でいくつかの例を挙げています。
-
- 人間(people)
- ある感情(sentiment)
- 品物(things)
- 金銭(money)
- 自分自身(ourselves)
また、もう少しマシなものとして、日没や海や花への崇拝の気持ちを挙げています。崇拝(worship)とは、賛美し信じることです。
確かに私たちは、そうしたものを信じてきました。そして、私たちが、誰かを愛したり、何かを信じたり、崇めたりするとき、それを理性で行なっているでしょうか? 誰かを好きになるときには、その人の長所だけでなく、短所ですら愛らしく感じられるのではないでしょうか? 相手の持っている短所は、多くの場合は私たちにとって損であるにもかかわらず、私たちはしばしば相手の短所も愛します。夕日の美しさに感動しているときに、なぜこんなに美しいのか分析してみる人はいないでしょう。この波長の光がこれだけ含まれているからという論理を積み上げて感動するわけではありません。
つまり、信じる・愛するという感情(feelings)と、理性はほとんどあるいは全く関係していないのです。
私たちは、自分が誰と結婚し、どこに住み、どんな仕事をするか・・などなどの自分の人生のコース(course)を理性によって決定してきたでしょうか? むしろ、誰かを愛したり、何かを信じることで、自分の人生の進路を決めてきたのではないでしょうか?
私たちに信仰や愛やものを尊ぶ能力がないのではなく、さまざまなかたちを取ってはいたけれど、私たちも、間違いなく信仰によって生きてきたのだった。それ以外の生き方があるだろうか。5)
信仰を持つ能力がない人はいない(誰もが信仰を持つことができる)のです。自分は信仰を持っていないと思っている不可知論者・無神論者でさえも、実は常に信仰によって生きているのです。
だから、ステップ2に取り組もうとする人は、すでに何かを信じているのです。たいていの場合、それは自分に由来する何か――自分の理性、論理的な思考能力、自分の良心・良識などなどです。ですがその何かには、アルコールの問題(アディクション)を解決する力が無かったのですから、別のものを信じるほかはありません。
信じる能力、信仰を持つ能力は誰にでも備わっています。なぜなら、誰もがその力を常に使って生きているからです。ステップ2の要求するのは、信じる対象を、いままで信じてきた何かから、別の何かに切り替えることです。忘れてはならないのは、
ということです。誰か他の人にステップ2をやってもらうことはできません。
信じるという永遠の力
いつも言っていることだが、信じる力は永遠の力であり、いつも光を発している灯台のようなものである。その光は人生の助けにもなれば、害にもなる。6)
I always say that believing is an eternal force, a lighthouse that stays on all the time. There is no way to turn it off; so if we don’t use it for ourselves, then we have to use it against ourselves.7)
第77回でも紹介したジョー・マキューの言葉です。There is no way to turn it off. が日本語訳では抜けています。信じるという光を消す方法はない。つまり私たち人間は信じることをやめることはできない、常に何かを信じているのです。
私たちは、暗闇の中でサーチライト(信じる力)を使って、信じるべきものを探し続けているようなものです。サーチライトを動かし続けて、光の中に何かが浮かび上がれば、私たちはそれを自分の神として信じます――不可知論者の場合にはそれがたまたま自分の理性だったのです。しかし、いつかは神として信じたものの限界を知り、別のものを見つけるためにまたサーチライトを動かすしかありません。そのようにして私たちは、新しい神の概念を獲得し続けていくのです(第77回)。
モテモテ神を信じる人(第77回・第79回)も、いつかはその神概念の限界に気づき、別のものを見つけるためにサーチライトを動かすでしょう。人はそうやって成長するのです。自分の良心や、お金や、スポンサーやAAグループをハイヤー・パワーに選んだ人も、同じことです。このプログラムをやっている限り、いつまでも同じものを同じように信じてはいられないのです。
理性にサーチライトの光を当て続け、理性を信じ続けている限り、理性以外の神を見つけることはできません。自分にサーチライトの光を当て続け、自分を信じ続けている限り、自分以外の神を見つけることはできません。サーチライトを動かせば、光はしばらくは何もない虚無の空間を照らし続けるでしょう。信じたいのに信じる対象が見つからないのは辛いことです。それでも信じるという光はオフにできません。私たちは何かが見つかるまでサーチライトを動かし続けるしかありません。
必要なことは、信じるという光を理性に当て続けるのをやめ、サーチライトを別の方向へと向けることです。神を信じることはできない、と言っている人は、実は理性(などの自分に由来する何か)に光を当てたまま、サーチライトを動かす気になれないでいるだけのことなのです。みんながサーチライトを振り回しながら暗闇の中を前へ前へと進んでいるのに、あなたはいつまでそこに留まっているつもりなのか?
次に、「生きていることは、二点を結ぶ最短距離は直線であるという具合に証明できるようなものではない」という表現が出てきます。なぜいきなり数学の話が出てくるのか疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。前回の理性の説明を読んだ方は、理性(reason)がラテン語では ratio という比率を示す言葉であることや、それはプラトンがピタゴラス教団の影響を受けて、真理は幾何学的に均整が取れているはずだと考えたことが元になっていることを理解されたでしょう。それゆえ、数学(特に幾何学)が理性の代表格とされるのです。そんなことからも、ビル・Wが、ビッグブックの読者として、ある程度の高等教育を受けた人たちを想定としていたことが分かります。
「電子そのものにさえ、知性がある(The electrons themselves seemed more intelligent than that=電子そのものはもっと知性的に思える)」という表現に疑問を持つ人は少なくありません。これを言った化学者が誰なのかは特定できていません。疑問を持つ人の多くは、この文を、電子が人間のような理性を備えているという意味に解釈するのですが、前回のクソ長い説明を読まれた方は、知性と理性は別のものであることを理解されたでしょう――知性とは神から直接与えられる導きのことです。電磁場を発見したファラデー(1791-1867)も、電磁気学の基礎を作ったマクスウェル(1831-1879)も、神と自然は一体のものと考えており、一見無秩序に見える自然の中に一貫性と法則性(つまり自然法則)を見つけ出すことで、神の意志を見いだそうとしました。結果として彼らは磁気・電気・光を統一する法則を見つけ出しました。8) そこには電子も神の意志を受け取って動いているという考えがあったのです。したがって、電子そのものも知性的に動いているように見えるというのは、特定の科学者の考えではなく、科学者全般の考えだったと言えるのです。
理性への依存をやめる
私たちは、理性がすべてではないことを知った。私たちは理性によっていろいろなことをするが、その根本にどんなによい精神があったとしても、何もかも理性に頼ることはできない。9)
Hence, we saw that reason isn’t everything. Neither is reason, as most of us use it, entirely dependable, though it emanate from our best minds.10)
理性はたいへん役に立つものです。教育を受けることや理性を鍛えることを否定はしません。理性が役に立つところでは、大いに理性を活用すればよろしい。しかし、理性には限界があるのは厳然たる事実です。私たちアルコホーリクは、そのことを身をもって学びました。理性では酒をやめることはできない、という事実を認めるのがステップ1でした(第56回)。私たちアルコホーリクにとっては、理性を頼ることは、酒による死しか意味しません。
私たち全員が理性を使って生きています。だが、理性は――たとえそれが人間の最高の頭脳(our best minds)から発せられたものであっても――完全に信頼できるものではありません。ライト兄弟の実績を否定したのはアメリカ最高の頭脳とされた人たちでした(第82回)。だから私たちは、理性を神として信じることをやめ、信じる力を別のもの、理性よりもっと善いものに向けなくてはならないのです。
- 理性に頼りすぎていると、理性の限界を超えた問題を解決できなくなる。
- 信じる能力、信仰を持つ能力は誰にでも備わっており、私たちは常にその力を使いながら生きている。
- ただし、信じる対象を切り替えることができるのは、その人自身だけである。
- 私たちは、自分の理性や考える能力や良心を神として信じることをやめ、もっと善いものをに信じる力を向けなければならない。
- 安藤寿康『日本人の9割が知らない遺伝の真実』, SBクリエイティブ, 2016, pp.44-49.[↩]
- BB, p.78.[↩]
- AA, Alcoholics Anonymous: The Story of How Many Thousands of Men and Women Have Recovered from Alcoholism, AAWS, 2001, p.53.[↩]
- BB, pp.78-79.[↩]
- BB, p.79.[↩][↩]
- SWT, p.28.[↩]
- Joe McQ, The Steps We Took: A Teacher of the Twelve Steps Shares His Experience, Strength, and Hope With All Those Recovering from Addictions, All Who Want To Recover, and All Who Love Them, August House Pub., 1990, p.30.[↩]
- 三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのか』, 講談社, 2018, 第五章.[↩]
- BB, p.80.[↩]
- AA, pp.54-55[↩]
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