ビル・Wに問う (7) オックスフォード・グループについて

『ビル・Wに問う』の第7回です。


Q7:オックスフォード・グループから何を学んだのか、またなぜオックスフォード・グループと別れたのか?

A7:AAの最初のステップは、私の主治医であるシルクワース医師、そしてスポンサーのエビーや彼の友人、さらにはチューリッヒのユング医師を由来としている。私が言っているのは、アルコホリズムが医学的に絶望であること、それが私たちのアルコールに対する「無力」ということだ。

12ステップの残りは直接にはオックスフォード・グループの教義からきたもので、それを特に私たち向けにしたものだ。もちろんそうした教義は別に新しいものではなく、あなたの行く教会で同じものが得られるだろう。それらは実質的に、善悪の観念(conscience)を調べること、告白、償い、他の人を助けること、そして祈りである。

オックスフォード・グループの人たちからたいへんな恩義を受けたことを認めなくてはならない。私たちが必要としていた霊的な原理に彼らが重きを置いていたのは幸運だった。だが公平を期して言うならば、彼らの考え方や実践のなかには、私たちアルコホーリクにはまったく役に立たないものも多かった。そうしたものは一つひとつ捨てられていったが、またそれは後に私たちがその結社から脱退し自分たちの共同体——こんにちのアルコホーリクス・アノニマス——を作る原因にもなった。

なぜ私たちが彼らとたもとを分かたねばならないと感じたのか、そのあらましを明確にしておかなくてはならないだろう。まず、彼らの取り組む姿勢が私たちアルコホーリクには合っていなかった。彼らは布教活動に積極的だった。彼らは「世界を変える」ための方法としてキリスト教の教えに再び命を吹き込もうと努力していた。私たちアルコホーリクのほとんどは、福音伝道の圧力にさらされ、それを嫌っていた。私たちは自分自身を救えるかどうかさえもまだ非常に疑問だったのだから、世界を救うという目的は他の人たちに任せておいたほうが良さそうだった。オックスフォード・グループは、専門用語を使ったがゆえに、また大きな圧力をかけるやり方をしていたために、特に新しいアルコホーリクに対して、あまりにも早い道徳的向上を求めてしまっていた。彼らはしょっちゅう、絶対の純潔、絶対の無私、絶対の正直、絶対の愛について語っていた。健全な神学には明らに価値があるにしても、オックスフォード・グループはこのような目標にすぐに到達しなければならない、おそらく来週木曜日までに、という雰囲気を作り出していた。たぶん彼らにはそんな印象を与えるつもりはなかったのだろうが、それが実際の印象だった。時には彼らがそうした性質を公に「証言」して、私たちを疑い深くさせたこともあった。また彼らは、有名な人たちを自分たちの信仰に「転向」させることで、有名でない多くの者たちの救済を加速できると信じていた。何も際だったところを持たない平均的なアルコホーリクがこうした考え方に魅力を感じることはほとんどなかった。

オックスフォード・グループの考え方や実践は、ある種の高圧的な権威を帯びるようになった。それは古いメンバーたちの「チーム」によって発動されていた。彼らは集まって黙想し、新しいメンバーの生活上の行いについて具体的な導きを受け取った。この導きは、実に些細なことから、とても重大なことまで、あらゆる状況を取り扱えることになっていた。こうして得られた指示に従わなかった場合、執行機関が活動を開始した。それは冷淡さとよそよそしい態度によって、反抗者たちに自分が嫌われていると感じさせた。例えば、ある時など、「チーム」は私のために、もうアルコホーリクには関わるな、という導きを得た。それは私には受け入れられないものだった。

もう一つ例を挙げよう。私が最初にオックスフォード・グループに接触したとき、当時の彼らは無宗派であることを徹底していたので、彼らのミーティングにはカトリック教徒も出席が認められていた。だがしばらくすると、カトリック教会は信徒が出席するのを禁じるようになったが、それは驚くべき理由によるものだった。カトリック教会の信徒たちは、オックスフォード・グループの「チーム」を通して生活上の具体的な導きを受け取るようになっていた。その導きの中にはしばしば、教会は時代遅れになってきているので「変わる」必要がある、という考えが吹き込まれていた。また、オックスフォード・グループに寄付をすべきだ、という導きも頻繁に与えられた。こうしたことが、結果としてカトリック教会が信徒たちを(オックスフォード・グループから)離脱させることになったと言える。この時点では、私たちアルコホーリクのグループにはカトリック教徒がまだほとんどいなかった。オックスフォード・グループの庇護の元にあるうちは、もうカトリック教徒にアプローチできなくなったことは明らかだった。であるから、これが、私たちアルコホーリクの集団がオックスフォード・グループにたいへんな恩義を感じながらも分離せざるを得なかった、もう一つの、そして基本的な理由なのである。(Blue Book, Vol.12, N.C.C.A.1), 1960)


もう一つの回答

A7:最初のAAグループができあがったとき、まだ私たちには名前がありませんでした。それから二、三年は盲目的飛行の時代が続きました。当時のスリップはひどく悲惨なものでした。私たちはお互いに顔を見合わせて、次は誰だろうかと思っていました。次から次へと失敗ばかりで、失敗が私たちの忠実な友でした。

アクロンから家に戻ってきた私は、いくぶん謙虚さを授かっており、あまり説教をしなくなったおかげで、数人が加わってくれました。クリーブランドやアクロンも数人になっていました。私は短い期間ビジネスに戻ってみましたが、ウォール街で再び暴落が起き、私も職なしに戻ってしまいました。私は仕方なく西部の街にでかけて、自分にできる仕事を探すことにしました。もちろん、それまでにもドクター・ボブと私は連絡を取り合っていたのですが、私が1937年の晩秋に彼の家に着き、居間に座っていたあの時まで、分かっていなかったことがありました。私は今でもその場面を昨日のことのように思い出すことができます。私たちは鉛筆と紙を取り出し、そこそこ長く酒をやめている人たちの名前を書き出しました。たくさんの失敗例があったにもかかわらず、アクロンと、ニューヨークと、さらに少ないけれどクリーブランドの人数を合わせると、真の解放を得て、十分な期間しらふを続けている人が40人に達したことが分りました。私はそのことを認識したあの偉大で謙虚な瞬間を決して忘れないでしょう。ドクター・ボブと私はその時初めて、永遠の夜の子である私たちアルコホーリクに新しい光が射し込んできたことを理解したのです。

その認識は大いなる責任をもたらしました。当然、私たちはすぐに気がつきました。このことを知っている私たち40人が、これを知らない何百万の人たちに、これをどうやって伝えたらいいのでしょう。この家から銃を撃てば届く範囲にだって、私たちのように強迫観念に徹底的に痛めつけられている人たちがいるはずです。どうやって知らせたらいいか。どうやって伝達するのか?

皆さんもご存じのように、当時のAAは徹底的にシンプルでした。多くの人がそう望んだからこそ、AAは最大限の単純さで満たされていました。私たちすべてのオールドタイマーは、あのシンプルで穏やかだった日々を思うとノスタルジアを感じずにはいられません。そこには創始者はおらず、金もなく、ミーティング会場すらなく、私たちは応接間でやっていました。集まった酒飲みたちのために、アニーやロイスがケーキを焼き、コーヒーをいれてくれました。私たちには名前すらありませんでした! 私たちは自分たちのことを「しらふになろうとしているアルコホーリクの一団」と呼んでいました。当時の私たちは今よりアノニマス(無名)だったのです。そう、何もかもシンプルでした。しかしそこに、新しい認識がもたらされたのです。これを知らない人たちに対する40人の男たちの責任が。

さて、私はそれまでビジネスの世界にいました。ウォール街という、かなりめまぐるしいビジネスの世界です。私は自分のことを、それなりの腕のプロモーターであり、ちょっとしたセールスマンでもあると思っていました。少なくとも現在よりもそうです。そこで私はビジネスマンのやり方で考えました。私たち飲んだくれは病院から嫌われていました。支払いを渋るし、治りもしませんから。だったら、自分たちで病院を作れば良いじゃないか。私は飲んだくれを入院させる全国規模の病院のチェーンを想像しました。たぶん、私はその株式を売って生活し、酔っ払いを助けることもできるでしょう。

でも、ドクター・ボブと私は、40人をしらふにするのも骨の折れる、時間のかかる仕事だったことを思い出しました。それだけでも約三年かかりましたし、当時の私たちオールドタイマーは自分たち以外にこの仕事ができる人間がいるはずがないと、うぬぼれていました。だから自然に、私たちにはアルコホーリクによる伝道集団が間違いなく必要だと考えました。つまり、誰かが一年か二年間、物質的な援助を受けながら、シカゴやセントルイスやフリスコに行ってセンターを立ち上げ、そしてその酔っ払い収容所に資金を集めるのと同時に、飲んだくれをそこへ集める。つまり、私たちには伝道集団と病院が必要だ。もう少し分別のある考えが浮かんできたのは、その後です。

私たちがそれまでに見つけたものを紙に残す必要があるのは明らかでした。私たちには本が必要だということなので、すぐ次の晩にドクター・ボブが招集したミーティングには一ダース半の人々が集まりました。そこで、後の私たちの運命に深い影響を及ぼす歴史的な決定がなされました。そこはノン・アルコホーリクの友人の家の居間で、スミス家の応接間より広くて都合が良かったので、そこをよく使わせてもらっていました。私は、この日のことも昨日の夜のことのように憶えています。

そしてスミッシー(ドクター・ボブ)と私は、この新しい責任が私たち40人にかかっていることを説明しました。どうやったら私たちはこのメッセージを、それを知らない人々に伝えられるのか? 私は病院と伝道所と本というアイデアを売り込んで話を締めくくりました。彼らの顔に失望が浮かぶのが見え、すぐにミーティングは大まかに三つの立場に分かれました。一つはもちろん私も一員だったプロモーターの立場。それから賛成も反対もしない立場の人たちがおり、そして正統派とも言うべき立場の人たちがいました。

正統派の人たちの声は大きく、彼らの言い分はもっともでした。「いいかい! 私たちにビジネスに手を染めさせ、堕落させようというのか。これに効果があるのはシンプルだからだ。誰がやっても良いからだ。誰もそこから何も得ない、利己的な思惑もない、ただ他の誰かと自分のソブラエティだけを求めるからだ。もし君が本を出しなら、私たちはそれについて際限ない争いに巻き込まれるだろう」 ビジネスに乗り出すな、というのと、もう一つ正統派の合い言葉は、私たちの主である神は本を書かない、というものでした。

そう、それは感動的でもあり、また結果的に、正統派の人たちはほぼ正しかったのです。ですが、ありがたいことに、完全に正しくはありませんでした。賛成でも反対でもない人たちのなかに、こう考えた人たちがいたのです。「もし、私たちがそうするべきだとスミッシーとビルが考えているなら、私たちはかまわないよ」と。そこで、賛成でも反対でもない人たちとプロモーター票が合わさって、押しのけられた正統派は、こう言いました。「ビル、それをやりたいなら、ニューヨークに戻って、金を集めるんだな。お手並み拝見だ」と。

この当時の私は、酔っ払っていたのだと思います。プロモーターというのは、酒なしでも酔っ払うことができるのです。その後の、史上最高の医学的発展、史上最高の霊的発展、そして史上最高の社会的発展については、すでにお話ししたとおりです。あの40人のアルコホーリクに感謝です。(1951年2月イリノイ州シカゴにて)

訳者追記:
AAのオックスフォード・グループからの分離については、『AA成年に達する』のpp.112-113にビル・Wによる記述がある。1937年晩秋のアクロンでの話し合いについては、同書のpp.115-117, 219-223に記述がある。

  1. National Clergy Conference on Alcoholism — 1960年代に聖職者がアルコホリズムに焦点を当てて開いていた協議会。 []