ビッグブックのスタディ (95) どうやればうまくいくのか 7

私たちの悩みや苦しみの根本原因は、私たち自身の自己中心性にある

自己中心性の話の続きです。

自分本位で、利己主義、それが私たちの問題のおおもとなのだ。1)


Selfishnessself-centeredness! That, we think, is the root of our troubles.2)

前回扱った範囲(pp.88-89)では、自己中心的(self-centered)、エゴセントリック、自分勝手(self-seeker)という言葉を使っていました。自己中心も、利己主義も、エゴイストも、自分勝手もすべて同じ意味です。第48回で説明しましたが、これはビル・Wがよく使った修辞技法 の一つです。同じ言葉を繰り返して使わずに、同じ意味を持った別の言葉に言い換えているだけなのです。だから、ここでは自己中心と利己主義の違いなどを気にする必要はありません。

ビル・Wは問題troubleトラブルという言葉を使って、私たち人間が人生の中で味わう悩みや苦しみを表現しています。私たちの悩みや苦しみの根本原因は、私たち自身の自己中心性にあるというのです。

これは目新しい主張ではありません。洋の東西を問わず、多くの宗教が、人の苦しみはその人の自己中心性から来ると説いています。例えば仏教では、これを無明 (つまりは我欲を産み出す愚かさ)として教えています。12ステップはその大部分をオックスフォード・グループから継承したものですから、当然キリスト教の影響を受けています。しかし、ここで大事なのは、それぞれの宗教の違いに着目するのではなく、共通しているところに目を向けることです。ジョー・マキューはこう述べています:

教義は別にして、偉大な宗教はその根本においてすべて同じことを言っている。違うのはその表現方法だけである。どれも、あるべき生き方について語っている。3)

ビル・Wは、AAや12ステップは新しいものではなく、精神医学と宗教の古くから実績のある原理を、アルコホーリクが受け入れられる形に整え直しただけだと述べています。(cf. アルコホーリクス・アノニマスの基本コンセプト ビッグブックを丹念に読まれている方は、すでに第四章の真ん中あたりから、主題がアルコホリズムから、人が生きる上での苦しみへと移っていることにお気づきでしょう第81回第83回

多くの宗教は、人の生きる苦しみは、人が人であることから産み出されてくると説きます。それは確かにその通りでしょう。僕はコンピューター・プログラムの設計と製作に従事していますが、今後どれほど技術が進歩しても、悩み苦しむ人工知能 を作ることは難しかろうと思います。人の苦しみは、人が人であるがゆえに生じるものです。では、人であるとはどういうことかと言うと、12ステップの言葉を使うならば「自己中心的である」ということなのです。

うまくいかないやり方を繰り返す

自己中心性ステップ3に取り組むにあたって、自分が利己的な人間であることを意識できれば良いのですが、実際にはそれは簡単なことではありません。特に戦略①を多く使う人は、自分はむしろ利己的な人に振り回されて傷つき苦しんでいると考えがちです。これは、他者のニーズを満たすことで自分に必要なものを相手から引き出す、という回りくどい戦略を採っているがゆえに、相手のニーズにばかり関心が向いてしまい、結果として「私はあなたのためこれだけのことをしてあげたのに、あなたは私のことをちっとも尊重してくれない」という恨みに陥りがちだからです。元々は自分のニーズを満たすために始めたことだというのを忘れているために、自分の自己中心性が見えなくなっているのです。

戦略①は、他者をコントロール・操作しようとしているわけですが、そのコントロール・操作が成功して自分の望みのものが引き出せていれば悩みや苦しみは生じるはずがありません。それが失敗するからこそ悩みや苦しみが生じるのです。身も蓋もない言い方ですが、つまり下手へたなのです。前回のAさんの例では、みんなが輪番で担当している朝の掃除を自分が一手に引き受けることで、(掃除とは関係ない)本業での評価を向上させようと目論んだわけですが、完全に失敗しました。それは明らかに成功の見込みの薄いやり方でした。

自己中心性とは、そのような成功の見込みの薄い考え方や行動(意志と生き方)に固執してしまうことでもあるのです。ショー全体を仕切りたがる役者さんが「もっとがんばろうとする」(p.88)とあるように、努力はするのですが、やり方を変えようとはしないのです。戦略①と戦略②をどう使い分けているにしても、私たちは、時を変え、場所を変え、相手を変えて、同じことを繰り返します。自分の考え方ややり方はなかなか変えられずにいるのです。

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第77回で、迷路に入れられたネズミの話を紹介しました。ネズミは行き止まりだと分かっている道を繰り返し選ぶことはありません。別の道を選んでいって、最後には出口へとたどり着きます。私たち人間はネズミより賢いはずなのですが、何度も何度も同じ間違いを繰り返して苦しみ続けることがしばしばあります。つまり私たち人間の理性や知性は、実はそれほどアテにはならないものなのです。(自分を神として崇めるのはやめたほうが良いという話を第80回で取り上げました。また人間の知性や理性には明らかな限界があることについては第82回で説明しました)。

わきみちそれにしても、なぜ戦略①のような「疲れる」手段を好んで使う人たちがいるのでしょうか? それについては、第93回で取り上げたACoAの創始者トニー・A(Tony A., 1927-2004)がその著書で、アダルトチルドレンが外部の承認に突き動かされているがゆえだと説明しています。自分の幸福や自尊感情の向上といった小さな勝利を喜ぶことができるのはたいてい自分自身だけであり、わざわざそれを賞讃してくれる人は滅多にいません。従って、ACとしてはこれは報酬が小さく感じられます。それに対して、他の人を助ける行為はより多くの注目・賞讃・感謝を生み出すことができます。こちらの方が報酬が大きく感じられるわけです。ただしこのやり方は多くのエネルギーを消費するという欠点があります。4)つまりハイリターンを求めてハイリスクな戦略を取っているわけです。もちろん、AC以外の人もハイリターンを求めてしばしば戦略①を使います。

自己(自分)こそが自己中心性の大もと

恐れ自己ぎまん身勝手自己れんびん、さまざまなかたちのそうした感情に駆り立てられて、私たちは人の足を踏みつける。相手も踏み返す。1)


Driven by a hundred forms of fear, self-delusion, self-seeking, and self-pity, we step on the toes of our fellows and they retaliate.2)

日本語訳には感情という言葉がありますが、元の文章にはありません――つまり原因は感情ではありません。恐れ以外の、自己ぎまん(self-delusion)、身勝手(self-seeking)、自己れんびん(self-pity)には、すべてself-(自己)という接頭語 がついていることに着目しましょう。つまり、原因は感情ではなく自己(self=自分)なのです。

この自己こそが自己中心性の大もとです。自己は様々なかたちをとって現れてきます。ここではその例として恐れ、自己ぎまん、身勝手、自己れんびんの四つが挙げられていますが、他にもたくさんの現れ方があります。だが、その現れ方が問題なのではなく、その根底にある自己(自分)こそが私たちの悩み苦しみの真の根本原因なのです。

この自己が私たちを駆り立てて、他の人の足を踏みつけさせます。この時、私たちは自己の繰り人形になってしまっているのです。自己が私たちの意志と生き方を支配している、とも言えます。

また、恐れ(不安)には、self-という接頭語がついてませんが、恐れも自己の現れ方の一つです。自己中心的だから不安になり、他者を操作することでその不安を解消しようとし、それにしくじってさらに不安は増していくのです。恐れをどう扱えば良いかは、ステップ4の恐れの棚卸しのところで説明する予定です。

さて、「人の足を踏みつける」といっても、悪意によるものとは限りません。むしろ善意による行動であることのほうが多いのです。ショー全体を取り仕切りたがる役者さんは、皆のためにショーを成功させたいと願っているのです。前回取り上げたAさんも悪意を持って同僚を傷つけようと朝の掃除をしたのではなく、善意で取り組んでいました。しかし、善意で行なったことが感謝されるとは限りませんし、むしろそれが相手を傷つけるケースはいくらでもあります。「どんなに良いことを目指していても、・・・ごたごたが絶えない」(p.87)とあるように、善意がトラブルを産み出してしまうのですから、人間同士のつきあいは難しいのです。

また「相手も踏み返す(retaliate=報復する)」とありますが、仕返しだとは限りません。相手は単に自分の身を守っているだけということもしばしばです。なのに、私たちは相手が悪意を持って足を踏んできた、と解釈しがちです。

因果応報の教えではない

ときには理由もなしに人に傷つけられることがある。だが実は、過去に私たちが自分勝手な決断をしたために、その結果いま自分が傷つく立場に立たされているということに、いやでも気づかされる。1)


Sometimes they hurt us, seemingly without provocation, but we invariably find that at some time in the past we have made decisions based on self which later placed us in a position to be hurt.2)

誰かから傷つけられたとき、なぜ相手がそんな酷いことを自分にするのか理由が分からないこともあります。それが仕返しだとするなら、それほど憎まれるようなことを自分は相手にしたのだろうか・・・いくら考えても思い当たる節がないこともしばしばです。

これにはいくつものパターンがあります。例えば、自分が鈍感で気づかなかっただけで、実は相手に大変な迷惑をかけていたことが後から判明することもあります(この場合には、理由が分からないという戸惑いは解消される)。先ほどから述べているように、善意でやったことが相手を傷つけることもあります。あるいは、相手は誰彼かまわず噛みついて回る未熟な人格の持ち主で、たまたま自分がそのターゲットになってしまったということだってあります(この場合は、相手の行為は報復ですらない)

どんな場合であれ、今回自分が傷つくことになったのは、どこかの時点で自己にもとづいた判断(deci­sions based on self)を下したからだと言うのです。

つまりこれは、過去に悪いことをしたから現在その報いを受けたのだ、という単純な因果応報の教えでは。因果応報とは、善い行ないをすれば善い結果が得られ(善因善果)、悪い行ないをすれば悪い結果がもたらされる(悪因悪果)という教えです。インドのバラモン教 の教えが仏教に受け継がれ、中国を経て日本に伝わりました。今の日本の社会に因果応報という考え方は深く浸透しています。だから、日本の文化に染まった私たちはこうした文章を読むと、ほとんど自動的に「これは因果応報の説明だ」と思ってしまうのですが、そうではありません。

前回紹介したAさんのエピソードでは、Aさんは悪いことをしていません。毎朝の掃除を引き受けるという善行を行ない、それは少額の特別賞与という結果に結びつきました。これはまさに善因善果そのものです。だが、彼はその善果によって激しく傷ついてしまいました。なぜなら、彼は自己にもとづいた判断をしているために、例えよい結果が得られたとしても、それが自分が狙った通りのものでないなら気に入らないのです。

僕は因果応報の教えを否定しているわけではありません。単に、ビッグブックのこの一節を因果応報の教えとして解釈するのは間違いだと言っているだけです。

因果応報の考えにもとづいて12ステップに取り組もうとする人は、悪い行ないを慎み、善い行ないをしようとします。しかし、善悪を自己にもとづいて判断するのは変えないので、Aさんのように善い行ないをしたのに傷つく羽目になり、なぜそんな辛い目に遭わないといけないのか悩んでしまうのです。自己中心性はちっとも減っていないということに気がついていないのです。

自己とは何か

では、なぜ私たち人間はかくも自己中心的なのでしょうか? この自己(self)はどういうものなのでしょうか?

ビッグブックにはその説明が見当たりません。ビッグブックの第五章が書かれたのは1938年の暮れで、ビル・Wが酒をやめて約4年、ニューヨークのビルたちがオックスフォード・グループから独立してまだ2年しか経過していませんでした。いろんなことが始まったばかりで、すべてをカバーするのは望むべくもありません。

『12のステップと12の伝統』
12&12

AAは1953年に『12のステップと12の伝統』(通称12&12)という二冊目のテキストを出版しました。この本は前半が12のステップ、後半が12の伝統の解説になっています。であるものの、ビル・Wにはこの本にビッグブックを代替させる意図はまったくなかったようで、その内容も(12ステップの部分については)あくまでビッグブックの補遺に限られています。なので、12&12だけを読んで12ステップを実践しようとしても、そこには霊的な原理についての不可欠な情報が含まれていないためにうまくいきません。

しかし、補遺として利用するならば、12&12には有益な情報が多いのも事実です。そこにはビッグブックが出版されてからの10年余りのあいだにビル・WとAA共同体が積み上げた経験と情報が収められています。

そして、人はなぜ自己中心的なのか? それを自分でどうしようもないのはなぜか? そもそも自己とはなにか? という問いに対する答えも、12&12の中にあります。ビル・Wは、12&12全体を通して、本能(instincts)という言葉を自己という意味で使っています。(e.g. 「自分がまったく無力だという考えには、すべての自然本能がこぞって反対の叫びをあげる」(p.29)、「しかし本能はなお叫ぶにちがいない・・・」(p.50))

つまり、

自己 = 本能

なのです。ビル・Wがビッグブックで自己(self=自分)と呼んだものと、12&12本能と呼んだものは同一であるという意味です。そして彼はこの本能というキーワードを使って自己中心性を説明しています。これについては次回扱うことにしましょう。

12&12 は誰が書いたのか?

1939年にビッグブックが出版されて以降、AAはアメリカ国内で急成長を遂げ、全国にグループができていきました。グループの中でトラブルが起きると、ニューヨークのAAオフィスに手紙で相談が寄せられました。それを読んだビル・Wは、多くのグループで共通したトラブルが起きており、また、その解決にも共通点があることに気がつきました。そこで彼はAAグループやAA全体が安定して存続していくための原理を、他のオフィススタッフやAAの理事たちと一緒に作り出し、それを12の伝統と名付けてAAグレープバイン誌上で発表しました。1946年のことでした。このようにしてAAにとっての二つ目の霊的な原理が成立しました。

その後、彼は12の伝統の一つひとつを解説する記事をグレープバイン誌に掲載していきました。それを一冊の本にまとめて出版する必要があるのは明らかでした。ところが(今のAAからは考えられませんが)この12の伝統はAAメンバーにはたいへん不評で、不必要だという意見が多かったのです。ビルは各地を回ってAAメンバーに伝統の必要性を説きましたが、グループの側は共同創始者であるビルの来訪は歓迎したものの、「どうかあのくだらない伝統のことは話さないで欲しい」とビルに釘を刺したほどでした。5) 12の伝統だけを扱った本を作っても、不人気な一冊になってしまうことは明らかでした。

一方、ビッグブックはというと、この頃までにはメンバーの間で神聖化が進み、ビル・W自身ですらその文章に変更を加えることができなくなっていました。そこで彼はビッグブックに手を加えるのではなく、12ステップについての新たな文章を書くというアイデアを温めていました。6) 12&12がステップと伝統のカップリング本になったのは、そのような事情があったものと思われます。

ところが、その執筆作業は早々と暗礁に乗り上げてしまいました。12の伝統の部分については、すでにグレープバイン誌に発表した文章があり、それを編集すれば済むことでした――ビルがグレープバイン誌に掲載した記事と12&12の伝統部分を読み比べてみれば、それが記事を編集して再録したものであることは明白です。そして12のステップの部分は新たに書き起こす必要がありましたが、ビルにはそれができませんでした。

ビルは生涯にわたって重い鬱のぶり返しに苦しめられ続けましたが、この時も重い鬱状態になり、執筆が進まなくなってしました。そこでビルの手助けをするために二人のAAメンバーが指名されました。一人は広告業界で働いていたトム・P(Tom E. Powers, 1911-2005)、もう一人は雑誌編集者ベティ・L(Betty Love)でした。トムは1941年にAAに初めてやってきて、1946年にビル・Wをスポンサーとして酒をやめました。トムたちが「ビルのタイプライターを使って新しい12ステップを書いた」と述べていることや、後になってビルが「先延ばしにしがちという、私のもともとの傾向に加えて、もうこれ以上書けないという恐ろしい呪いが私にかかっていた。ここ数年の出来事にすっかり打ちのめされていたので、価値あるものを生み出すことはもうできなかった」と告白していることからして、12のステップの部分は実質的にビルは執筆していないと考えられます。

ビルの女好きは酒をやめても止まらなかったという話は第91回で書きました。トムは自身を性強迫症だと認めており、酒をやめてから性の問題を克服するのに5年を要しました。そんなトムの目に、スポンサーであるビルの女好きの様子はだらしなく映ったのでしょう。執筆が続いている間、トムはそのことについてビルと議論しましたが、ビルは自分のやっていることは良くないと認めたものの、行動を改めることはありませんでした。 7)

トムはその後ビッグブックの第二版(1955)の編集にも関わりましたが、さらに数年後にはビルとの関係を絶ちAAをやめました。1961年にはアルコールだけでなく、薬物・食べ物・セックスなど幅広いアディクションを扱うイーストリッジ(East Ridge)クリニックを作り、さらにオール・アディクツ・アノニマスAll Addicts Anonymous, AAA)という団体を立ち上げました。AAAは四つの絶対性、12のステップ、そして「10のポイント」という厳格な規範をプログラムとして採用しており、トムが亡くなった後も活動を続けています。8)

ビッグブックと12&12を読み比べた人は、その調子の違いに驚かれたでしょう。ビッグブックが「神様がなんとかしてくれるさ」という楽天的な考えで貫かれているのに対して、12&12のステップ部分はより求道的で審判的(judgemental=手厳しく裁く)な調子を帯びています。これはビル・Wとトム・Pの性格や考え方の違いが反映されていると考えれば納得できるのではないでしょうか。また、12&12の手厳しさには、5年の苦労の末にようやく性的なしらふを達成したばかりのトムのビルに対する感情が込められているのかもしれません。

というわけで、12&12のステップの部分は、実質的にはトム・Pの手によるものと考えられ、それを根拠として偽典 扱いするAAメンバーもいるのですが、AAの公式の見解としては12&12の著者はあくまでビル・Wであって、他の人の名前は挙げられていません――そして、12&12も後に神聖化が進んでその文章に手が加えられなくなっています。9)

このスタディでは、このような非公式な歴史を踏まえつつ、AAの公式の見解に従って12&12もすべてビル・Wが書いたものとして扱います。ただしステップの本としては12&12は副教材ということになります。

今回のまとめ
  • 私たちの悩みや苦しみの根本原因は、私たち自身の自己中心性にある。
  • 自己中心性とは、成功の見込みの薄い考え方や行動に固執してしまうことでもある。
  • 自己中心性の大もとには、自己(self)がある。
  • この自己が私たちを駆り立て、人の足を踏みつけさせ、衝突と不安を私たちにもたらす。
  • 12&12では自己を本能という言葉で表現している。

  1. BB, p.89[][][]
  2. AA, Alcoholics Anonymous: The Story of How Many Thousands of Men and Women Have Recovered from Alcoholism, AAWS, 2001, p.62[][][]
  3. ジョー・マキュー(依存症からの回復研究会訳)『ビッグブックのスポンサーシップ』, 依存症からの回復研究会, 2007, p.167, cf. p.170.[]
  4. Tony A., et. al, The Laundry List: The ACoA Expereince, 1990, Health Communications, chap. 4.[]
  5. AACA, p.308; cf. ビル・Wに問う (11) 「12の伝統は広く受け入れられたか」[]
  6. アーネスト・カーツ(葛西賢太他訳)『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』, 明石書店, 2020, p.220 およびその註も参照。[]
  7. ビル・ウィルソンとトム・パワーズの関係についてはゴシップ的な記事が目立つ。ここでは、ビルの伝記も書いたスーザン・チーバーが The Fix に書いた記事を最も信頼することにした ―― Susan Cheever, “Why Bill W. Wrote the 12 Steps Twice” — The Fix, 2012, (archived page). 「書けないという呪い」についてのビルの言葉はチーバーの孫引きである。[]
  8. トム・パワーズについては、Brown University Library の Tom Powers collection of Bill Wilson public talks (Ms. 2010.002) の公開されている Biographical note とそのリンク先を参考にした。[]
  9. AA, Twelve Steps and Twelve Traditions, AAWS, 1953, p.15 — このページは日本語訳からは省かれている。また、前掲カーツの脚注も参照。[]

2024-04-05

Posted by ragi