ビッグブックのスタディ (63) 解決はある 14

今回は、アマチュア研究家のコーラ・フィンチ(Cora Finch)が、2006年から08年にかけて公開していた Stellar Fire というサイト1)の内容を紹介します。

ローランド・ハザード

ローランド・ハザードは、1881年10月29日にロードアイランド州 のピースデール(Peacedale)で、二男三女の長子として生れ育ちました。一家は、ローランドの10世代前にイギリスから移民してきて、ロードアイランド州南部に入植しました。最初は農業を営んでいましたが、19世紀に入る頃に繊維工場を作り、やがてそれを化学工場に発展させました。

ローランドはイェール大学 を1903年に卒業し、一家がアメリカのあちこちで営む事業に携わりました。仕事の責任を果たすために、彼はロードアイランドのほかに、ニューヨーク、バーモント、カリフォルニアにも家を持っていました。1910年にシカゴの銀行家の娘ヘレンと結婚し、三男一女をもうけました。

彼は、1914年から16年までロードアイランド州議会の上院議員を務め、第一次世界大戦では化学兵器部隊の大尉となりました。1920年には、一家の化学工場を含めた同業五社が合併し、アライド・ケミカル・アンド・ダイ社が設立されました(アライド・ケミカル)。ローランドはその取締役となり、生涯にわたってその地位を維持しました。彼は他にも様々な会社や投資銀行の取締役を務め、成功した実業家となっていました。

わきみちアライド社はナイロンなどの化学繊維の会社として成長しましたが、やがて自動車や宇宙産業の会社を吸収合併して、巨大なコングロマリット を形成しました。20世紀の終わり頃にはアライドシグナル という社名になっており、さらにハネウェル を合併して、現在は社名もハネウェル(Honeywell)になっています。

前回紹介したリチャード・M・デュビエルは、その著書 The Road to Fellowship のなかで、ローランドはフィッツジェラルドの小説『華麗なるギャツビー 』の登場人物のようだと表現しています。2) ただし、成り上がりの登場人物ギャツビーではなく、代々裕福な階級のイースト・エッグ・グループのほうだとしています。

第一次大戦後、父親やその他の親族の死によって、ローランドは一族の当主となりましたが、遅くとも1925年までには、彼のアルコホリズムは一族の悩みの種となっていました。

レオナルド・ベーコン

Leonard Bacon
Leonard Bacon, by rhale1100, from Find a Grave

ローランド・ハザードには、レオナルド・ベーコンLeonard Bacon, 1887-1954)という従兄弟(父親の妹の子)がいました。レオナルドは詩人として1941年にピューリッツァー賞 を受賞しています(僕はピューリッツァー賞に詩部門があることを知りませんでした)。おそらく一族の中で最も有名な人物でありましょう。

レオナルドはローランドより5才年上で、ローランドと同じくピースデールで育ち、イェール大学を卒業しました。卒業後のレオナルドは、一家の事業を手伝っていましたが、やがてカリフォルニア大学バークレー校 の大学院に入学し、教員となって、大学に留まりました。

レオナルドはカリフォルニアで二つの集団と知り合いました。一つは、民俗学者でアメリカ南西部の先住民の神話を研究する人たち。もう一つは、カール・ユングの分析を受けた、小さいながらも熱心なユンギアン(ユング派)のグループでした。

レオナルドは、詩人と詩の翻訳者として身を立てることを目指し、1923年には望み通りに彼の本がよく売れるようになりました。そこで彼はバークレイを退職し、芸術家が集まることで有名なカリフォルニアのカーメルという町に住まいを構えました。ところが、この転職の後で、彼は鬱になってしまったのです。

彼は良い結婚をし、かわいい子供たちに恵まれ、経済的成功や社会的評価も得たのに、なぜか「馬鹿げた苦悩」に精神的なエネルギーを食い尽くされていたのでした。酒を飲んでみても、運動をしてみても、精神科医にかかっても彼の憂鬱は晴れませんでした。

彼は友人のユンギアンたちに説得され、1925年の初頭にチューリヒに向かい、ユングの分析を受けました。それによってすっかり回復したレオナルドは、ユングの信奉者となり、その後もユングや関係者と書簡のやりとりを続けました。彼の従姉妹(ローランドの従姉妹でもある)キャロル・ソーヤー・バウマン(Carol Sawyer Baumann, 1897-1958)もユンギアンとなり、1929年にはチューリヒに引っ越して、ユングの義理の息子の親戚と結婚し、やがてユング心理学の講義を行うようになりました。レオナルドは1930年代を通じて定期的にチューリヒのユングやキャロルのもとを訪れました。

このようにして、ローランドのいとこのうち二人が、ユングと近しい関係にありました。

ローランドの治療

1925年の後半に、レオナルドの両親が相次いで亡くなったため、彼は翌26年にかけて、遺産の処理をするためにカリフォルニアの自宅と故郷のピースデールとの間を頻繁に行き来していました。そして、ローランドの妻ヘレンからローランドの「問題」の解決についての相談を受けました。

この時ハザード夫妻は、休暇でバミューダ諸島 に滞在していましたが、ローランドが飲酒のコントロールを失い、さらに彼の不貞が発覚したことで、夫婦の間で口論が起きました。ヘレンは、ローランドが先に家に帰るので、3月25日にニューヨークに着く彼をリッグス医師の療養所に連れて行って欲しいとレオナルドに手紙で依頼しました。

オースティン・フォックス・リッグス博士Austen Fox Riggs, 1876-1940)は、ストレス反応を専門とする精神科医で、マサチューセッツ州 ストックブリッジStockbridgeに療養所を作って神経症の治療を行っていました(現Austen Riggs Center。ローランドは1925年の夏にこの療養所に滞在し、その後もひと月に一回治療を受けに通っていましたが、その効果はかんばしくなかったようです。

レオナルドは、ローランドをリッグスの療養所に連れて行く代わりに、夫婦に対して、チューリッヒに行ってユングの分析を受けるように説得を行いました。4月に夫婦は蒸気船でヨーロッパに向かい、5月6日にチューリッヒに到着しました。その後は、ローランドはユングの、そしてヘレンはトーニ・ヴォルフToni Wolff, 1888-1953)の分析を受けました。

わきみちこのことから、ローランドがユングの前にフロイトやアドラーを頼ったという逸話は、どうやら後代のAAメンバーによる創作と見なして良いでしょう。

6月下旬に、ローランドの銀行口座からヨーロッパに電信で約5,000ドルが送金された記録があります。これは現在の貨幣価値に換算すると約76,000ドルにあたります。3) 日本円にして約840万円です。ホテル費用などにも使われたにしても、この大部分がユングらへの支払いに充てられたと思われます。

ハザード夫妻は7月下旬にはニューヨークに戻りました。このことから、ローランドが分析を受けた期間は約2カ月だったことがわかります。治療がローランドに効果をもたらしたのは間違いなく、その後の彼は、家族と過ごしたり、投資の仕事に取り組んで充実した日々を過ごしました。少なくとも、翌1927年の秋まで、彼のアルコホリズムが再発したことをうかがわせる情報はありません。

ユングとブックマン

さて、カール・ユングとオックスフォード・グループの関係はどうだったのでしょうか?

フランク・ブックマンと彼の活動は、すでに1920年代には世間の注目を集めていました。ブックマンは「熟練した魂の外科医(old soul surgeon)」と呼ばれるようになっていました。魂の手術(soul-surgery)とは、ブックマン及び彼によって訓練を受けた魂の外科医(soul-surgeons)たちだけが行えた伝道手法であり、抑圧されている過去の経験をを本人が告白することで、激しい感情体験を呼び起こし、それによって意識の変化(回心)をもたらすというものでした。これは、力動精神医学における解除反応abreactionと類似しており、ブックマン一派が危険性を十分理解せずに心理療法を行っているという批判がありました。(魂の手術は無料で行われると喧伝されていましたが、実際には多額の献金を要求していました。4) つまり、神経症の治療という点では、ブックマン一派(宗教)と精神分析(医学)は競合する関係にあったというわけです)。

ユングは、無神論者のフロイトと袂を分かったとは言え、精神科医として自分は科学者であると主張していました。宗教的な癒やしを評価していたものの、ブックマンや彼のオックスフォード・グループを称賛したり、推薦する理由はユングにはありませんでした

ユングの原始社会への関心

ヘッケルが描いた発生図
ヘッケルが描いた発生図, from Wikimedia Commons, CC0

フィンチは、ユングに大きな影響を与えた当時の科学的思想として反復説 を挙げています。反復説は、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル (1834-1919)が唱えたもので、「個体発生は系統発生を繰り返す」と表現されます。動物の受精卵が成体になる過程は、その祖先生物がたどった進化の過程を反復するというものです(例えば、哺乳類の胚は魚類の鰓孔のようなものを獲得する時期がある)。現代ではこの考えはほぼ否定されています5)が、19世紀後半から20世紀前半にかけて、科学のさまざまな分野に影響を与えました。

ユングは、人間の身体の中に祖先生物の形態が保たれているならば、人間の精神の中にも古代の人間の精神が保たれているはずだと考えました。―― cf. 普遍的無意識第61回

北アフリカ

by WikiImages, from Pixabay, Pixabay Licence

1920年に、ユングは友人に誘われて北アフリカのチュニス へ旅をしました。それはユングにとってヨーロッパから離れて、外からヨーロッパを見る初めての体験となりました。友人と別れて、サハラの奧のオアシスへと進んだ彼は、偶然アラブ人 たちの宗教の儀式に遭遇し、その強烈な体験が、彼を古代のスピリチュアルな伝統を保っている人たちへの研究へと目を向けさせることになりました。

ニューメキシコ

ユングは1924年から25年にかけてアメリカを訪れた際に、西南部ニューメキシコ州に足を伸ばしています。これは、カリフォルニアのユンギアングループの計らいによるもので、ユングはタオス・プエブロ ネイティブアメリカン の長老とその神話について話し合いました。自伝で彼はこのときの着想をこう書いています。

 ほんの僅かな間でもすぺてのヨーロッバ的合理主義から目を転じ、一方は広大な大陸の草原に続き、他方は太平洋に接している、あの人里離れた台地の澄んだ山の大気に身をひたすなら、そして同時にわれわれがこれまで慣れ親しんだ世界理解を捨て、その代りに測りがたくみえる地平に目を転じ、その彼方になにがあるかも知らぬ無知に身を委ねるなら、われわれはプエブロ-インディアンのものの見方を理解しはじめるであろう。「すべての生命が山から生ずる」という確信が、ただちに自分のものとなり、神にま近く、測りがたい世界の屋根に住んでいることに、なんの疑いも抱かなくなってしまうのだ。とりわけ彼は神性の声を聞きわけ、宗教儀式は遠くの太陽にたちまち達するのである。山々の神聖さ、シナイ山でのエホバの啓示、エンゲディーン峡谷でニーチェが受けた霊感、これらはすべて同一線上にある。われわれには不合理に思えた、祭祀の行為が太陽に魔術的に影響をおよぼしうるという考えも、よく吟味してみれば思ったほど不合理ではなく、はじめに推測したよりもずっと親密な考えであった。われわれのキリスト教も、他のあらゆる宗教と同様に、なにか特別の行為が、あるいはある特殊な動作が神に影響しうるという考えに染まっており、たとえば、儀式とか祈祷とか、あるいは神の御心に適う道徳を守ることによって、神に影響しうると考えている。6)

ふたたびアフリカへ

チューリッヒに戻ったユングは、すぐに次の旅の準備を始めました。今度はイタリアから蒸気船で地中海を東に向かい、スエズ運河と紅海を経て、モンバサ に着きました。そこで鉄道に乗り換え、ケニア (当時はイギリス領)の内陸へと向かいました。そして、エルゴン山 の東麓に数週間キャンプを張り、孤立したそこの部族の信仰を研究しました。この時の現地の老人とのやりとりを、こう記しています。

Sunrise on Mount Elgon
エルゴン山の日の出, from clark expeditions

その話し合いの終りがけに、ある老人が突然大声で叫んだのである、「朝になって、太陽が昇るとき、われわれは小屋からとび出して、手に唾をはき、その両手を太陽に向かってさし上げるのだ」と。・・・この行為がなにを意味するのか、なぜ手に唾をはきかけるのか、私は尋ねてみたが無駄だった。「われわれはいつもそうやってきたのだ」という。なんの説明も求めることはできなかった。彼らには自分たちの行なっていることが分るだけで、なにをしているのかということは分っていないのだということが、私には明らかとなった。彼らはこういった行為の意味を見ない。しかしわれわれでも、なにをしているのかはっきりしないままで、クリスマスツリーの蝋燭ろうそくの灯をつけたり、復活祭の卵を隠したり、いろいろな儀式をしているではないか。

・・・この日の出の瞬間のみ、太陽は「ムングウ」 すなわち神であった。紫色の西空にかかる新月の、はじめの徴妙な金色の鎌形も、また神である。しかしそれもそのときだけであって、それ以外のときはなんでもない。

御来光の瞬間に神的である太陽に捧げものをすることが、エルゴン族の儀式の意味であることは明らかである。その捧げものが唾であれば、唾は原始的にみると個人の超自然力マナ、治癒力、魔力、そして生命力を包含する実体なのである。その捧げものがいきであれば、それはローホ、アラピャ語のルフ、ヘブライ語のルアハ、ギリシア語のプノイマであり、風と魂ということである。したがってこの行為は「私は神に私の生ける魂を捧げる」ということを物語っている。それは無言のうちに行為として現わした祈りなのであって、この祈りは同じく、「神よ、あなたの御手に私の魂を委ねる」ということである。7)

その後、彼は白ナイル川 に向かい、ナイルを下ってエジプトに戻りました。アフリカ旅行からチューリッヒに帰ったのは1926年3月14日。これはローランド・ハザードが分析を受けにやって来る8週間前でした。

ローランドもアフリカへ

1926年にチューリヒから戻ったローランドは、平穏な生活を続けていましたが、翌27年の9月にはふたたびヨーロッパに向かいました。その最終目的地はアフリカでした。これはシカゴの石炭商のジョージ・F・ゲッツ(George Fulmer Getz, 1863-1938)ミシガン州 に所有していた私設動物園に展示する動物を捕獲するために、他の5人のハンターと250人の現地人ポーターを連れて行ったハンティング旅行でした。このハンターの一人がローランドでした。ローランドがこのツアーに加わったのは、ユングの2年前の足跡を辿るという目的があったようです。ただし、ゲッツ隊の目的地はユングが滞在したエルゴン山より南のタンガニーカ (現在のタンザニア)でした。

この旅行はフィルムで撮影され、その映像はミシガン州ホランドのホランド博物館Holland Museumのアーカイブで見ることができます。ローランドが巨大な蟻塚を登ろうとしている映像が残されています。

ところが一隊が現地入りしてまもない12月中旬には、ローランドはアメーバ赤痢 とおそらく腸チフス にかかって、アルーシャ の病院に入院することになりました。それでもひと月後の翌年1月21日には、救急車でケニアのナイロビ まで300Kmを移動できるほどまで回復していました。ところが彼はナイロビでぶり返しに苦しみ、肝臓の病気の宣告を受けました。医者たちはアメーバが原因と考えていましたが、彼の病歴を知れば、別の原因に思い当たったかもしれません。

この時に、ローランドは孤独の中で、自分の問題は信仰の欠如であることを悟り、聖書を読み始めたという手紙を母親に送りました。その手紙の中で、スーザン(Susan, 1889-1980)という従姉妹から送られた二冊の本が役に立ったと述べています。スーザンはレオナルドの妹ですが、その夫エルマー・D・キース(Elmer D. Keith)はイェール大学を卒業後、ローズ奨学金 を得てオックスフォード大学に留学し、やがて夫婦ともどもブックマンの運動に加わりました。ですから、スーザンがローランドに送った本は、オックスフォード・グループの本だと思われます。

ローランドの実弟ピエール(Thomas “Pierre” Pierrepont Harard, 1892-1968)が、はるばるナイロビまで旅をしてローランドと合流しました。ローランドの肝臓は順調に回復し、3月に二人はフランスへ船で移動しました。二人はパリでレオナルドと合流し、3月末に一行はロンドンに移動して、キャベンディッシュThe Cavendish Hotelという贅沢なホテルに投宿しました。弟はすぐに帰国したのですが、ローランドとレオナルドはそこに残りました。そして、このホテルでローランドの飲酒問題がぶり返してしまいました。

レオナルドはローランドをユングのところへ連れて行こうと試みましたが、説得できなかったようで、4月上旬にレオナルド一人でチューリヒに向かい、湖でキャンプしていたユングと数日を過ごしました。彼はローランドが後から追ってくることを期待しましたが、ローランドにそのつもりはなかったようで、4月14日にレオナルドは妻に「ロンドンにいるローランドのことは諦めた」と手紙を送り、同じ日にローランドは船でイギリスを発ちました。

前回、ブルームの論文で、1928年の春にローランドがアフリカからの帰路でユングに会いに行った可能性を挙げましたが、フィンチの調査はそれを否定しました。また、この時にロンドンではブックマンの信奉者が活動していましたが、ローランドが彼らと接触した形跡はありません。ローランドが従姉妹スーザンから送られた本から何らかの影響を受けたとしても、この時点ではまだブックマンの運動には関心を寄せていません。

わざわざヨーロッパまで救援に来てくれたレオナルドの助けを断ったことで関係が疎遠になったようで、この後レオナルドの書簡にはローランドの話題がほとんど出てこなくなります。

その後の治療と離婚

合衆国に戻ったローランドは、ニューヨークのエドワード・S・カウルズ医師(Dr. Edward S. Cowles)の治療を受けました。カウルズはアルコホリズムのアレルギー説の支持者でしたが、独自の理論を持っていました。彼は、髄液の圧力によって脳や脊髄が刺激されてアルコールへの渇望が生じると信じていました。そこで、腰椎穿刺によって髄液を抜くことでその圧力を下げるという、当時の基準からしても非正統的な治療を行っていました。ローランドはカウルズの治療をその年の夏まで頻繁に受け、なんとそれによって事業に復帰できるまでに回復しました。

さらに、ピーター・ベインズPeter Baynes, 1882-1942)による分析を受けたことが分かっています。ベインズはユングの友人のイギリスの医師・心理分析家で、ユングの本の英訳をしていた人物ですが、この年(1928年)に北カリフォルニアに移って開業していました。8)

1929年初頭に、ローランドは自動車でアメリカ南西部へと旅をし、ニューメキシコのアラマゴード で偶然見つけた土地を気に入って購入しました。彼はなぜその土地を買ったのか明確にはしていませんが、まだこの時点ではユングの足跡に対する彼の関心は薄れていなかったと考えられます。(いずれにせよ、まだこの時点では、彼はオックスフォード・グループを求めていない)。

わきみちどんな理由でその土地を買ったにせよ、事業家として抜け目のないローランドは、建てた家の屋根を瓦葺きするためにメキシコから呼んだ有名な陶芸家が近くで見つけた良質の粘土を使って陶器工場を建てました。1935年夏には、ニューヨークに滞在していたエビー・Tを伴ってここに滞在し、近所の牧場主たち相手にオックスフォード・グループのミーティングを開きました。(同じ頃、ビル・Wはアクロンのドクター・ボブの家に滞在して、アルコホーリクのグループを立ち上げようと奮闘していた)。

そしてこの年の2月25日に妻ヘレンと離婚しました。彼女の離婚の意思は、ローランドのアフリカ出発前にすでに固まっていたようで、ローランドの浮気が原因だと推定されています。ローランドはそのことを後悔し、なんとか結婚を維持しようとしましたが、その努力は稔らずに離婚になってしまったというわけです。

再婚と再発

ところが、興味深いことに、約2年後の1931年4月27日に、この二人は再婚しました。規模は小さいながらも教会のチャペルで式を行いました。そして、その2カ月後の6月末から9月初めにかけて、夫妻と4人の子供たちはヨーロッパに家族旅行に出かけました。末子のチャールズ(Charles B. Hazard, 1920-1995)はこの時まだ11才でしたが、パリ滞在時に両親だけでスイスに行ったことを記憶していました。9)

ハザード夫妻が二人だけでスイスを訪れる理由はユング以外に考えられません。ただ、この時にローランドはアルコールや鬱の問題は抱えていなかったはずだとフィンチは主張しています。そんな状態だったならば、ヘレンが再婚するはずはないし、ましてや家族旅行に出かけて楽しげな手紙を出すこともなかったはずだ、というのがその根拠です。したがって、この時にローランドがユングの分析を必要としたとは考えられず、二人はユングに挨拶と事後報告をしにいっただけなのかもしれません。

つまり、ローランドがユングを再訪したのは、1926年の分析の直後ではなく、5年後だったことになります。そして、この時期のローランドのアルコホリズムは寛解していた可能性が高く、したがって、ローランドの相談も深刻なものではなく、ユングのアドバイスも穏当なものであったはずです。

ところが、ローランドの断酒はまたまた長くは続きませんでした。翌1932年の2月、3月、7月に、ローランドはニューヨークのドクターズ病院に入院しました。

後にローランドがオックスフォード・グループのメンバーとして行った講演の記録では、彼は経済的には成功していたものの、スピリチュアルにはバラバラになりそうになっていた、とこの頃の自分のことを表現しています。そして、1932年に当時20才の大学生だった長女からオックスフォード・グループを教えられて接触を持ってから、人生から酒が取り除かれ、絶望的な状況に向き合う勇気が与えられたと語りました。

ところが、1933年になると、ローランドの病状はさらに悪化し、事業に携われなくなってしまいました。そこで、呼ばれたのが前回紹介したコートニー・ベイラーでした。エマニュエル運動を始めたエルウッド・ウォーセスターは、ヨーロッパに留学したときにヴントフェヒナーに師事して心理学を学んでおり、そのウォーセスターからベイラーはトレーニングを受けていました。エマニュエル運動は心理療法に重きを置き、オックスフォード・グループのような福音主義的なトーンはありませんでした。しかし、ユング派とブックマン派の両方から影響を受けたローランドのような人物を治療するのに、ベイラーほど最適な人物は他にはいなかったでしょう。

ローランドは事業をいったん親族に任せ、自らはバーモント州に滞在してベイラーの治療を受けました。ベイラーは1934年10月までローランドに雇われていたので、ローランドがエビーを助けたときには、まだベイラーによる治療中だったことになります。

ローランドが実際にいつオックスフォード・グループに加わったのかははっきりしません。前述の講演では1932年と語っていますが、従姉妹のスーザン夫妻はブックマンの熱心な信奉者であり、親族間の手紙からはローランドに対して以前から働きかけが行われていた様子が見て取れます。

ローランドのその後

その後のローランドはどうなったのでしょうか。エビーを助けた後、ローランドはオックスフォード・グループで熱心に活動するようになりました。

デュビエルは、ローランドの晩年は十分に好調なものであったようだ、と評価しています。唯一、1936年8月にニューメキシコ滞在中に深刻な連続飲酒に陥り、ニューヨークに連れ戻されて入院しています。この時、家族の間の手紙には、オックスフォード・グループのシェップ・C(1934年にローランドと一緒にエビーを助けた人物)の助けを借りようという提案がされていました(実際にシェップが助けに行ったのかどうかは不明)。この年、ローランドは聖公会 の一員となり、以後教会で活発に活動しました。10)

ローランドの飲酒が1925年頃に深刻化して治療が始まり、1936年に終結したとするならば、再発を繰り返しながら解決までに10年余りを要したことになります。彼は様々な治療者の間を渡り歩きましたが、彼の霊的生活は、最終的には「友人たちとの個人的で誠実なふれあいを通じて」もたらされました。ユングはビル・Wへの返信の中で、ローランドのような性格の人間にとってその選択が最善であったのは明らかだ、と述べました。

第二次世界大戦 は彼にとって辛い経験になりました。1944年に長男が戦死、1945年には次男も沖縄で戦死しました。ローランド自身は1945年12月20日に64才で亡くなりました。11)

Rowland Hazard and his wife and son Peter
ローランド・ハザードと妻と次男(1943年か44年), from Hindfoot Foundation

フィンチによれば、ローランドは1931年にユングを再訪していた可能性が高いことになります。その場合、初回の分析から5年経過していたことや、ローランドの再発直後ではなかったことから、再会時の二人の会話の内容は、ビルの説明とは違ったものだったはずです。

フィンチの調査はそれまで不明だった幾つかの点を明らかにしてくれました。しかし、なぜユングはいったんは引き受けたローランドの治療を拒んだのかという謎は残されたままです。それについては、次回取り上げてユング関係はお終いにしたいと思います。

今回のまとめ
  • ローランド・ハザードは、先にカール・ユングによる分析を受けていた従兄弟のレオナルド・ベーコンからユングを勧められた。
  • ローランドは、ユングの跡を辿ってアフリカやニューメキシコを訪れた。
  • レオナルドの妹スーザン夫婦はブックマンの熱心な信奉者であり、ローランドはスーザンを通じてオックスフォード・グループについて知っていた。
  • ローランドがカール・ユングのもとを再訪したのは、1931年だった可能性が高い。


  1. http://www.stellarfire.org/ – 現在は消失。 []
  2. Richard Dubiel, The Road to Fellowship: The Role of the Emmanuel Movement and the Jacoby Club in the Development of Alcoholics Anonymous, iUniverse, 2004, p.64 []
  3. US Inflation Calculator による換算。 []
  4. DBGO, p.76 []
  5. 発生途中の幼生形態の類似は、発生過程が共有されているに過ぎず、系統発生の反復があるわけではない。むしろ、個体発生途中での変化が系統発生の変化をもたらすので、因果関係は逆である。 []
  6. ヤッフェ編(河合隼雄他訳)『ユング自伝―思い出・夢・思想― 2』, みすず書房, 1972, p.75 []
  7. ibid., pp.94-95 []
  8. ベインズは、1925~26年のユングの東アフリカ旅行に同行した。また、1927年には、キャロル・ソーヤー・バウマンがロンドンでベインズによる分析を受けた。 []
  9. Mel B., New Wine: The Spiritual Roots of The Twelve Step Miracle, Hazelden, 1991, p.16 []
  10. Dubiel, pp.78, 162 []
  11. Rhode Island Historical Society, Rowland Hazard III PapersRhode Island Historical Society (rihs.org), 2021/02/12 []