ビッグブックのスタディ (28) 医師の意見 19
愛称で呼ばなかったヘンリー
前回は、シルクワース医師の紹介した霊的変化の事例二人のうち、一人目のヘンリー・Pについの話でした。彼はビルの書いた『AA成年に達する』の中では常にヘンリーと呼ばれています。本来であれば、愛称のハンクで呼ばれるべきところです。
ファーストネーム(first name) | 愛称(nickname) |
---|---|
ウィリアム(William) | ビル(Bill) |
ロバート(Robert) | ボブ(Bob) |
エドウィン(Edwin) | エビー(Ebby) |
ヘンリー(Henry) | ハンク(Hank) |
彼を愛称のハンクではなく、ヘンリーと呼んでいるところが、仲違いをしたビルとヘンリーの関係性を示しているように思えてなりません。
ヘンリーの部下だったジミー
ヘンリーは以前はスタンダード・オイル の販売副部長をしていましたが、その時にアルコホリズムを理由にしてクビにした部下がいました。その男性ジミー・B(Jim Burwell, 1898-1974)も1938年にAAに加わりました。
ジミーの体験記「悪循環」(The Vicious Cycle)は、ビッグブックの第二版以降に掲載されています(日本語訳は『アルコホーリクス・アノニマス 回復の物語 Vol.1』に収録。ただしすでに品切れ重版未定)。
ジミーはメリーランド州 ボルチモア の円満な家庭に生まれ育ちました。思春期をプロテスタント の全寮制の学校で過ごしたおかげで、むしろ宗教嫌いの不可知論者になりました。医者になるために進学した大学は酒で中退してしまいましたが、優秀な営業マンになりました。ところが仕事で成功しては酒でそれを台無しにしてクビになるというパターンを繰り返し、40歳になったときにAAにつながりました。
ジミーはAAの差し向けてくれたジャッキー(Jackie Williams)というメンバーの話を聞いて、すぐに酒をやめましたが、それから一週間もしないうちにスポンサーであるジャッキーが再飲酒してしまいました。困ったジミーがニューヨークのAAメンバーに助けを求めたところ、「二人ともニューヨークに来たらどうか」と誘われて、ヘンリーのアパートに転がり込んだのでした。(スポンサーのジャッキーは後に酒で死んでしまいます)。
ジミーはニューヨークのAAで酒をやめ続けただけでなく、ヘンリーの設立したオーナー・ディーラー社にカーワックスの営業マンとして雇われました。
ジミーの回復
ところが、彼は「神」というものにも「スピリチュアルなもの」にも徹底して反発しました。最初のジャッキーとの話でも神についての話題は無視していましたが、ビル・Wやヘンリーと会ってミーティングに参加するようになった後でも、「自分は酒を飲みすぎただけで、生き方や考え方を変える必要は無い」という主張を変えませんでした。
そればかりではなく、ジミーはミーティングで公然と神やスピリチュアルなものを非難し、それらを取り除けばAAはもっと良くなると言って憚りませんでした。古参のメンバーたちは腹を立て、黙想の中で「ジミーを追放する方法が見つかりますように」と祈ってみたり、逆に自らに寛容さが与えられるように祈ったりする羽目になりました。それでもジミーは酒をやめ続け、ワックスも売り続け、神を非難し続けました。
数ヶ月後、ジミーは出張先のニューイングランド で再飲酒しました。途方に暮れた彼はニューヨークのメンバーに助けを求めたのですが、電報は突き返されてしまい、やっとつながったヘンリーへの電話では解雇を言い渡されてしまいました。彼はその時の心境を体験記でこう綴っています:
私は、このときはじめて真剣に自分自身の本当の姿を直視することになった。かつてないほどひどい孤独を感じた。私と同じような仲間にすら背を向けられてしまったのだ。これには、いままで体験したどんな二日酔いよりもひどく傷ついた。私の確固たる不可知論は消えさり、本当に神を信じている人たちや、とにかく、まじめに自分を超えた力を見つけようとしている人たちが、私よりもはるかに落ち着きがあり満足しているのがわかった。そして、彼らは、私には見いだしえなかった幸福感に満たされているように思えた。1)
なんとかワックスの残りを売り払って旅費を作ったジミーはニューヨークに戻りました。態度が改まったのを見て、メンバーたちは彼を受け入れ、彼はもう一度プログラムをやり直すことになりました。それによって彼はハイヤー・パワーの概念をつかみ取ったのです:
長いあいだ、私が理解する唯一のハイヤーパワーはグループの力だったが、今回は、かつて認め受け入れたものをはるかに超えるものだった。しかし、それは始まりに過ぎなかった。2)
ジミーはやがてフィラデルフィア に移り、そこでAAグループを始めました。さらに故郷のボルチモアでもAAを始めました。メッセージを運んだ相手であるローザ(Rosa)と結婚し、後に西海岸のサンディエゴ に移ってその地のAAの発展に寄与しました。
ジミーはスピリチュアルなものを受け入れましたが、彼のハイヤー・パワーの概念はあくまでも非宗教的なものであり、彼は生涯、非宗教的な神の概念をAAメンバーに売り込み続けました。
貢献したのはどっちだ?
この話を読んで、ジミーが『12のステップと12の伝統』の伝統3にエドとして登場していることに気づかれた方もいるでしょう。3) エドは実在する人物(ジミー)だったのです。ヘンリーとジミーには、元無神論者(あるいは元不可知論者)だったこと、敏腕の営業マンだったことなどという共通点があるためにこの二人は混同されがちですが、別の人物です。恨みによって自壊していったヘンリーとは対照的に、ジミーはAAの中で活動し続けました。
12ステップの「神」という言葉を「自分なりに理解した神」に変えた功績は(ジミーの主張にもかかわらず)実際にはヘンリーに帰されるべきです。しかしながら、ミーティングで公然と神を批判したジミーの存在がなかったなら、ヘンリーもビルに対して強く主張することができなかったかもしれませんし、ビルも譲歩の必要性を認めなかったかもしれません。
なによりも、ジミーのようなカチコチの不可知論者が、やがては神を信じるようになり、他のアルコホーリクに対してスピリチュアルなプログラムを説くようになったという点において、アルコホーリクにとっては「神」よりも「自分なりに理解した神」のほうが利点があることをジミーの回復が証明したと言えます。
信仰を取り戻したフィッツ
シルクワース医師の紹介した霊的変化の事例の二人目は、xxxix (39) xlii (42)ページに「こわれた納屋で死ぬのを待っていた男」として登場する人物フィッツ・M(John Henry Fitzhugh Mayo, 1897-1943)です。彼の体験記「南部の友」(Our Southern Friend)は、ビッグブックの初版から現在の第4版まで掲載され続けています。(日本語訳は『アルコホーリクス・アノニマス 回復の物語 Vol.4』に収録)。
フィッツはメリーランド州 の聖公会 の牧師の息子として生まれ育ちました。しかし彼は、思春期にプロテスタントの学校で過剰な宗教教育を受けたおかげで反宗教的になった、と述べています。(おそらくジミーと学友になったのはこの学校でしょう)。
フィッツはハンサムで、彫りの深い顔をしており、地主階級の落ち着いた性格で、まさに「南部の紳士」そのものでした。しかし、彼自身は劣等感や無能感に苛まされており、体重不足が原因で第一次世界大戦の兵役に就けなかったことが、さらに彼の自信を奪ったようです。
フィッツは大きな会社の簿記係としてキャリアを築きましたが、大恐慌 でその職を失い、次に就いた教職も酒で失ってしまいました。その後、子供時代からの友人が、ワシントンD.C. 近くのメリーランド州の農場の一部を彼に譲ってくれました。しかしアルコホリズムは悪化し、鬱にも苦しめられるようになりました。
1935年の9月、彼はニューヨークのタウンズ病院がアルコホリズムの治療に成功例を出していると聞き、治療を受けに行きました。おそらく彼はビル・Wにとって、ヘンリーの次の成功例のはずですが、体験記から判断すると、その病院にはすでにビルのプログラム(12ステップの原型)を試そうとした他の人が入院していたことが分かります。
その人物は9日前にタウンズ病院を退院したものの、プログラムに取り組めずにまた入院していました。そしてフィッツに「正直になれれば君の問題は解決する」と教えました。フィッツは「正直になるとはどういうことか」と問いただすと、その人物は、
-
- 自分が絶望的(hopeless)だと認める
- 自分より偉大な力を信じる
- 自分の問題を他の人に話す
- たとえ相手に問題があるとしても、かつて自分が傷つけたことを正す
- 自分のことより他人の幸せを考える
- 私をあなたの望みのままにしてくださいと祈る
と教えてくれました。そう聞いて、彼は「神はいるのかも知れないが、ぼくには何一つしてくれなかった」と反論しました。しかし部屋に戻って考えると、自分の知る信心深い人たちが全員間違っているとも思えず、また、人より自分がすばらしい人間であるかのように思ってきたのは、自分勝手な思い込みに過ぎなかったことに気がつきました。その時、一つの考えが彼の頭の中を占めました。
その考えに圧倒され、彼は信仰を取り戻しました。4)
この話はビッグブックの第四章の末尾でも使われています(pp.81-83)。フィッツはメリーランドに戻りましたが、たびたびニューヨークにやってきました。だから、ニューヨークのAAグループの初期は、ビル・W、ヘンリー・P、フィッツ・Mという3人での活動だったわけです。5)
AAのプログラムから神を取り除くことを強烈に主張したヘンリーやジミーに対して、フィッツはその対極の意見を表明しました。つまり、ビッグブックはキリスト教の教義を表現し、聖書の言葉を使ったものでなければならない、と主張したのです。ビル・Wとしてはヘンリーとフィッツの意見の中庸を取ることを迫られました。6) ヘンリーの功績が「自分なりに理解した神」という表現によってステップの入り口を広げたことであるならば、フィッツの功績はステップを世俗的なものにせず、スピリチュアルな要素を維持したことと言えるでしょう。
フィッツはワシントンでAAグループを始めましたが、何年も実を結ばず、彼は長くローンナーとして活動することになりました。しかし最終的には、ワシントンを中心とした多くのグループができあがりました。
第二次大戦が始まると彼は陸軍に加わりましたが、そこで癌に罹っていることが判明し、1943年に亡くなりました。酒をやめて8年、46歳の時でした。彼はメリーランド州のかつて父親が牧師をしていた教会の墓地に埋葬されましたが、彼のすぐ隣には学友のジミーも埋葬されています。7)
AAにおけるコンサバとラジカル
AAの歴史研究を学術的レベルまで引き上げたアーネスト・カーツ(Ernest Kurtz, 1935-2015)は、著書『アルコホーリクス・アノニマスの歴史』のなかで、AAの中には歴史的に二つの勢力が緊張関係を保って存在していると主張しています。8)
一つはオックスフォード・グループあるいはキリスト教の教義がAAプログラムの中核にあると主張する人たちです。この源流を辿るとフィッツ・Mやアクロンのメンバーたちにたどり着きます。もう一つは、有神論 的な宗教を警戒し、人間中心主義9)を唱える一派です。
ビル・Wは前者を保守派、後者を急進派と呼んでいます。10) カーツは前者を右派、後者を左派と呼んでいます。昔も今も、ほとんどのAAメンバーはどちらにも与せず、スピリチュアルなものは必要だが、宗教とは距離を取るという立場を取っています。
AAは宗教ではないけれど、神は確かに12ステップのなかに存在します。AAが宗教と世俗の間に微妙なバランスを保って存在を続けていられるのは、AAをその出発点である宗教的運動の原理に回帰させようとする保守派と、AAから宗教性を取り除きたいと考える急進派が、綱引きを続けているからだと言えます。
カーツは、AAがその本質を変えずに存在を続けられるかという問いに対して、この右派と左派が、お互いを尊重し、一緒に分かち合っていこうとする限りAAは生き残るであろうと述べています。11) 正反対の主張をしたフィッツとジミーが墓を並べていることは、その一つの象徴であるように思えてなりません。
では、日本のAAの現状はどうでしょうか。日本のAAには保守派(右派)が存在しなかったおかげでバラスを欠いている、というのが僕の現状認識です。
- シルクワース医師の紹介した最初の事例(ヘンリー・P)の部下だったジミー・Bも不可知論者だった。
- 二人目の事例フィッツ・Mはビッグブックがキリスト教の教義を表現したものになるべきだと主張した。
- AAには伝統的に、キリスト教の教義に回帰しようとする保守派と、スピリチュアルなものを取り除こうとする急進派の間に緊張関係が保たれバランスが保たれてきた。
次回は「医師の意見」の総まとめになります。12)
- AA, 『アルコホーリクス・アノニマス 回復の物語 Vol.1』, AA日本ゼネラルサービス, 2010, p.43.[↩]
- ibid., p.44[↩]
- 12&12, pp.192-196.[↩]
- AA, 『アルコホーリクス・アノニマス 回復の物語 Vol.4』, AA日本ゼネラルサービス, 2010, pp.11-28.[↩]
- Nancy O., Fitz Mayo – New York’s AA #3 – Alcoholics Anonymous Central Intergroup Office of the Desert (aainthedesert.org).[↩]
- AACA, pp. 248, 254.[↩]
- Nancy O.[↩]
- アーネスト・カーツ(葛西賢太他訳)『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』, 明石書店, 2020, pp.371-397.[↩]
- ここでいう人間中心主義(humanism)とは宗教を否定する立場。[↩]
- AACA, p.248.[↩]
- カーツ, p.397.[↩]
- 今回参考にしたページをWikiにまとめておいた。[↩]
最近のコメント