ビッグブックのスタディ (76) 私たち不可知論者は 3
ビッグブックの第4章、68ページから続けます。
信じてみようという気持ち(意欲)を表す
そうなのだ。不可知論者的な気性を持っている私たちは、同じように考え、同じような経験をしてきた。だから心配しないでほしい。1)
霊的な目覚めを経て回復した人たちの多くはかつて不可知論者でした。そんな彼らが、現在も不可知論者である人たちに対して「心配はいらない」と呼びかけています。なぜ心配しなくて良いのでしょうか? 続きを読んでいきましょう。
私たちが自分を超えた偉大な力への偏見を捨て、信じようという気持ちになった時、結果は表れたのだ。その力について、また神についてよくわからなくても、理解できなくても、かまわなかった。1)
We found that as soon as we were able to lay aside prejudice and express even a willingness to believe in a Power greater than ourselves, we commenced to get results, even though it was impossible for any of us to fully define or comprehend that Power, which is God.2)
express even a willingness to believe in は「信じてみようという意欲を言葉で表すこと」です。3) つまり彼らの経験によれば、偏見(先入観)を捨てて、自分を超えた偉大な力を信じてみようという意欲を言葉で表すことができただけでも、結果は現れ始めたというのです。しかも、誰もその力(つまり神)を完全に定義したり、理解することができなかったにも関わらず、彼らの霊的変化は始まったのでした。
多くの人が、神を信じてみようと思う前に、神を理解しようとします(あるいは、神とは何かを定義しようとします)。
人が生きていくためには、用心深さが必要です。無条件に何でも信じてしまうのでは、オレオレ詐欺にすらあっさり騙されてしまうでしょう。詐欺ではないにしても、いまの世の中には言葉巧みに無用なモノやサービスを売りつける商売が横行しています。自分の身を守るためには、安易に信じてはいけないのです。一方で、何も信じずに生きていくことはできないのも自明の理です。
信じられるかどうかをどう判断するか
では、何かを、あるいは誰かを、信じられるかどうかをどうやって判断したら良いのでしょうか? 一つの方法は、相手をよく知ることです。相手についての情報を得た上で、その情報を元に信じられるかどうかを判断するのが良い方法だとされています。
だから、神を頼る必要が生じたときに、不可知論者は、神についての詳しい情報を知りたいと思うものです。その情報を元に、神を理解した上で、信じるかどうかを決定しようとするのです。残念なことに、その願いは叶いません。なぜなら、人間の知性には限界があるために、人間を超えた存在である神を十分に理解することは決してできないからです。信仰を持っている人たちでさえ、神を十分に理解できているわけではありません。(旧約聖書のヨブ記 は人間の理解の限界を教える物語になっている)。
だから、「信じるためには、信じる対象を理解する必要がある」という考えに固執していては、信じることが難しくなってしまいます。ジョー・マキューも、人は「自分を超えた大きな力」を理解したいという気持ちに苦しむこともあると述べています。4) 理解したいという気持ちが信じることを邪魔してしまうのです。5)
他方で、私たちは自分には理解できない力に頼って暮らしているのも事実です。ジョー・マキューもビル・Wも、その例として電気を挙げています。4) 6) オームの法則 を理解できていない人でも、暗くなれば照明のスイッチを入れます。スマートフォンの仕組みがよく理解できなくてもスマートフォンを使っています。理解できないからという理由で、電気や電話を使わずに生活する人はいません。
このことからも分かるように、実のところ、(信じられるかどうかについての)私たちの判断の基準は、対象についての詳しい情報ではなく、多くの人がそこから恩恵を受けているかどうかです。電気やスマートフォンからは多くの人が便利という恩恵を得ているので、自分もそれを頼りたいと思うわけです。ジョーも「『自分を超えた大きな力』が信じられるようになる一つの方法は、私たちのまわりにいる、神によって変えられた人々を見ることである」と述べています。4)
ところが、日本のAA共同体では(おそらく他の12ステップグループでも)、私は神によって変えられたと自ら述べる人の数は決して多くはありません。ミーティングに出席することで、あるいは自分が努力したことで回復できたという分かち合いはたくさん行なわれていますが、ある力が自分のためにしてくれたのだと述べる人はわずかです。これでは、スマホを使っている人がおらず、皆が公衆電話と固定電話で用事を済ませている世界にいるのと同じです。それでスマホの便利さを感じろというのは無理なことです。携帯電話が普及を始めたのは1990年代でしたが、もしそれ以前の1980年代の人たちにスマホの便利さを説明できたとしても、そんなものがあれば便利だろうけれど、まだ実現していない絵空事だろうと思われることでしょう。日本でAAが始まって40年以上が経過していますが、まだ霊的回復の普及は始まっていない、というのが現実なのです。もう少し広がってくれると良いのですが・・・。
新しい人たちに何を信じて欲しいのか
アメリカのAAメンバーの分かち合いを聞いていると、「神を信じられなくても、私が信じているということは信じて欲しい」という言い方がされます。7) 日本語に訳しても意味のくみ取りづらい文章ですが、その人が「信じている」と言っているのは、その人が神によってアルコホリズムから救われたという経験です。つまり、私が神によって救われたということを信じて欲しい、という主張なのです。
スマホで通信ができる仕組みが理解できなくても構わないから、スマホの便利さ(恩恵)を信じろというのと同じです。ステップ2は、ハイヤー・パワー(神)を信じることを求めていません。何者なのかよく分からないけれど、ともかくハイヤー・パワー(神)というものが存在して、それが「私たちを健康な心に戻してくれる(強迫観念を取り除いてくれる)」ということを信じろというのです。神がどうやって私たちに霊的な変化をもたらすのか、その仕組みはわかりません。だが、ともかく私たちの精神に変化を起こしてもらえて、それによって私たちは強迫観念から守られ、酒を飲まなくなる、という恩恵があるのです。そのことを信じるのがステップ2です。
これを読んでいるあなたも、誰かのスポンサーになってステップ2を伝えるときには、スポンシーに言わなければならなくなるでしょう。「神を信じられなくてもかまわないが、少なくとも私が神によってアルコホリズムから救われた人間であることは信じて欲しい」と。それはエビー・Tがビル・Wに伝えたメッセージと同じです(p.17)。結果としてビルは、ならば自分も救ってもらおうと考えるようになったのでした(pp.18-19)。
自分なりの神の概念
それに、ほかの人が信じる神のことは考えなくてよいのだとわかって、とてもありがたかった。1)
Much to our relief, we discovered we did not need to consider another’s conception of God.2)
神の概念(conception of God)については前回説明しました。宗教(宗派・教派)というのは、それに属する人たちに同じ神を同じように信じることを要求します。しかしAAは宗教ではないので、他の誰かと同じ神を信じる必要はありません。
不可知論者には一つの先入観念があります。それは、神を信じるならば、他の人が信じているものと同じものを信じなければならない、という思い込みです。そのような「古い考え」(p.85)を捨てて、自分なりに理解できる神の概念を持てば良いのです。
あまり適当でなくても、自分なりの考え(神の概念)で、神に近づき、神に触れることができた。1)
Our own conception, however inadequate, was sufficient to make the approach and to effect a contact with Him.2)
宗教の提示する神の概念は、たいへんに神らしい神概念です。どこに出しても恥ずかしくない立派な神概念だと言えます。しかし、そのような神っぽいものでなくても、あなたが自分を超えた存在だと受け入れることができるものであれば、何を信じようとあなたの自由なのです。例えば、AAの書籍にも「電球」や「三番街のバス」を自分なりに理解した神にしている実例が挙げられています。8)
もうずいぶん前のことですが、僕のホームグループのミーティングに、アメリカ人のAAメンバーが突然やってきました。酒をやめてまだ数週間しか経っていないビギナーでした。その彼が「これが私のハイヤーパワーだ」と言って見せてくれたのは、小さな木片でした。彼はそれをスポンサーからもらったのだそうです。ステッピング・ストーン(Stepping Stones)は、ビル・Wと妻ロイスが亡くなるまで住んでいた家の名ですが、現在はAAから独立した財団によって管理され、公開されています。その家の奥に、ビルの書斎として使われたウィッツ・エンド(Wit’s End)という小さな建物があります。僕らのホームグループを突然訪れたAAメンバーのスポンサーは大工で、ウィッツ・エンドの木の床を張り替える仕事を請けたのだそうです。そして張り替え作業が終わった後、廃材となった床材を小さな木片に切り分けて、多くの人にプレゼントしました。僕が見せてもらったのは、その一つだったのです。それは何の変哲もない木片でしたが、彼がそれには自分を超えた力が宿っていると信じているのなら、それは十分に彼のハイヤー・パワーたり得るのです。
霊的とは(その2)
前回、霊的(スピリチュアル)とは、「神に関すること」であると説明しました。現在ではスピリチュアルという言葉は様々な意味に使われるようになっていますが、12ステップにおいては、霊的とは「神に関すること」という意味です。
宗教も、神という超越的な存在を扱っていますから、宗教はスピリチュアルなものです。しかし、スピリチュアル=宗教ではなく、スピリチュアルは宗教より広い概念です。「スピリチュアル ⊃ 宗教」と表現することもできます。9) スピリチュアルは宗教を含む概念です。図にすると、こんな感じになります。
この図を見ればわかるとおり、スピリチュアルだけれども宗教ではない(上図の黄色部分)、というものも存在しうるわけです――12ステップはその一例です。12ステップは宗教ではありませんが、神に対する信仰というものを扱っています。
ともあれ、(宗教であろうとなかろうと)信仰というものは霊的なものです。また、祈りや黙想も霊的なものです。
また、霊的(スピリチュアル)とは、超自然的 (supernatural)な存在に関することです。超自然的という言葉は聞き慣れないかもしれませんが、「自然の法則を超えていて、人間の知識では説明できない不思議なこと」という意味です。
私たち人間は、自然の法則に縛られています。例えば万有引力 の法則に縛られているので、自由に空を飛ぶことはできず、必ず地面に落ちてしまいます。時間の流れに縛られているために、過去に戻ることはできません。しかし、神は自然の法則を超えていて、人間にはできないことができます(――神が超越的な存在だというのは、人間を超えているだけではなく、自然の法則を超えているからです)。
ステップ1を思い出していただきたいのですが、私たちはアルコールに対して無力であることを認めました。その理由の一つは、現代の医学や心理学が私たちのアルコホリズムを治せないからです。すべての大酒飲みが治療不能というわけでではありません。ユング医師も、シルクワース医師も、一部の人々を救うことはできたと主張しています(p.41, p.xxxvii (37))。しかし、彼らとてすべてのアルコホーリクを救えたわけではありません。私たちが「本物のアルコホーリク」と呼ぶ類型の人たちは、当時も、現在も、絶望的な状況に置かれているのです。
ステップ1は、「科学は私たちを救えない」ことを示しています。自分自身でも、他の人たちでも、私たちを救うことはできません。つまり人間の力では私たちを救うことができないのです。だから、(不可知論者にとっては大変嫌なことなのですが)「神という超自然的な存在に自分を救ってもらう」ことを求めるのがステップ2です。自然の法則に縛られることのない神の力ならば、科学ができないことも実現できるでしょうから。10)
なぜそのような極端な選択ができるのでしょうか? それは、ステップ1で私たちの置かれた絶望的な状況に気がつき、やむにやまれず、溺れる者が藁をも掴むの気持ちで、「自分を超えた大きな力」が自分を助けてくれることに期待をかけるからです。つまり、ステップ1に十分取り組めていれば、ステップ2に取り組むことはまったく難しくありません。
「私はステップ1の無力を認めているけれど、ステップ2に進めずにいる」とミーティングで話す人がいます。その言葉の後半はそのとおりだったとしても、前半には自己欺瞞があります。つまり、その人は無力を認めておらず、まだ自分の力で「何とかなるだろう」という期待を持ち続けているのです(自分が溺れていることにまだ気がついていないということ)。ステップ2ができない人は、ステップ1が十分できていないのです。
回復するためには開かれた心が欠かせない
第58回で、開かれた心の必要性について説明しました。心を開く – open mindnessとは、ミーティングで何かを分かち合うことを意味しているのではなく、自分の中にある抵抗感や警戒心を自ら乗り越えて、新しい何かを受け入れていくという意味です。この場合には、神や信仰というスピリチュアルなものに対して、自分が持っている先入観や嫌悪感を乗り越えて、受け入れていこうとすることです。回復にはそれが不可欠です。
『12のステップと12の伝統』のステップ1の終わりにこうあります:
私たちはアルコホリズムという審判を受けてAAにたどりついた。そこで事態の重大な本質に気づいた。その時、やっとその時になってはじめて、死に臨んだ人のような広い心の持ち主(open-minded=開かれた心を持つよう)になり、説得に耳を傾ける気持ちになった。私たちは自分から容赦のないとらわれ(obsession=強迫観念)を取り除くためなら何でもする用意ができたのだった。11)
この「なんでもする(do anything)」の意味は、ミーティングに出続けるとか、スポンサーの指示に従うことを意味しているのではなく、開かれた心を持って、神や信仰といったスピリチュアルなことがらを受け入れていくことです。しかしながら、不可知論者にとっては、「自分を超えた大きな力」に自分を救ってもらうことを願うよりも、ミーティングに出続けたり、スポンサーの指示に従う方がまだ選びやすかったりするのです(なぜなら、それは自分の努力によって自分を救うという「古い生き方」の続きができるからです)。
開かれた心を持つと、先ほど述べたように「信じてみようという意欲」が生じてきます。信じる対象(神)のことは、まだよく理解できないし、何者なのかもわからないものの、ともかく「強迫観念を取り除いてもらえる」という実益が得られることを信じたくなってくるわけです。必要なのは、その気持ちを言葉にして表現することです。
- 偉大な力(神)を信じるためには、それを理解したり、それが何であるかを定義する必要はない。
- なぜなら、他の人が恩恵にあずかっているのなら、自分もあずかりたいと思うのが、人間が何かを信じるときの考えであるから。
- 他の人と同じ神を信じる必要はない。
- 自分なりの神の概念を持てば良く、それは神らしいものである必要はない。
- 神は超自然的な存在であり、科学では治せない私たちのアルコホリズムを解決できる。
- 他の人がアルコホリズムを神に解決してもらっているのなら、自分もその恩恵にあずかりたいと思うのがステップ2。
- 開かれた心を持つと、自分を超えた偉大な力を「信じてみよう」という意欲が与えられる。
- BB, p.68.[↩][↩][↩][↩]
- AA, Alcoholics Anonymous: The Story of How Many Thousands of Men and Women Have Recovered from Alcoholism, AAWS, 2001, p.46.[↩][↩][↩]
- expressには「言葉で表す」という意味がある。[↩]
- PFY, p.33.[↩][↩][↩]
- 不可知論者には、信仰を持っている人たちは神をよく理解しているに違いない、という思い込みがある。[↩]
- 12&12, p.51.[↩]
- 例を挙げるならば、Wally Paton, Back to Basic-101: An introduction to the Twelve Steps of Recovery, Faith With Works Publishing, 2010.[↩]
- DBGO, p.234.[↩]
- ⊃は集合論で使う記号で、A⊃Bは、BがAの部分集合であることを示す。「AはBを含む」とも読まれる。[↩]
- その点では、12ステップの根底には超自然主義があると言える。[↩]
- 12&12, p.34.[↩]
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