ビッグブックのスタディ (108) どうやればうまくいくのか 20

第五章(ステップ3と4)の振り返り

今回で第五章が終わりますので、これまでの学びを振り返ってみましょう。この章ではステップ3と4が説明されていました。ステップ3では、まず意志と生き方について学びました。「私たちの意志」とは、私たちが考えることであり、そのなかでも特に欲望や願望を指していました。そして「私たちの生き方」とは、その願望を実現するための行動のことでした。

次に、ショー全体を取り仕切りたがる役者を例に、人はアルコホーリクに限らず)誰もが、ものごとを自分の思い通りに進めて生きていこうとしていることを学びました。これは人間の持っている自己中心性の説明です。ただしそれは「自分さえ良ければいい」という利己主義とは限りません。この役者さんはショーを成功させるために、すなわち自分以外の人たちのためにも、ショー全体を取り仕切りろうとするのです。私たちは良かれと思って(←ここ重要)、自分の周りの人たちを支配し、コントロールしようとしてしまうのです(=共依存)。そしてそれが、私たちの生活や人生にトラブル(悩みや苦しみ)をもたらします。アルコホーリクだけでなく、すべての人がこのような生き方をしているわけですが、アルコホーリクはその極端な実例と言えるのでした。

悩み、苦しみながら生きたいと思う人はいません。誰もが、安楽で平和な生活を望んでいます。なのになぜ私たちは、自分で望んでいないトラブルを起こしてしまうのでしょうか? それを知るために、次に「私たちの意志」を構成している三つの本能(安全・性・共存)について学びました。

三つの本能は、私たちが生れながらにして持っている欲望(欲求)です。これらの欲求は私たちが生きていくために欠かせないものですから、悪であるとか、不用なものとして否定することはできません。しかし、私たちは本能を制御できていないのも事実であり、どうやってもそれを暴走させてしまいます。ですから、自分の意志に従って生きている限り私たちは悩みや苦しみから解放されることはなく、常にアルコホリズム再発する危険にさらされている、という結論に導かれました。

助かりたければ、自分を超えた存在(神)に、自分自身を委ねるしかありません。そこで、「自分を神に委ねることができた状態」を理想とし、その理想を実現するために努力するという決心をしました。これがステップ3で私たちが決めたことでした。

人生(生活・生命)の三つの次元(構成要素)

しかし、その理想の実現を邪魔しているものがあります。ステップ2で学んだように、私たちと内なる神の間には障害物が存在しています第87回。その障害物が私たちと神との関係を妨げているのです。だから私たちは、自分の中にある障害物を取り除くために掃除(house clean­ing)と呼ばれる作業を始めました。私たちは自分の中からゴミを見つけ出し、そのゴミを捨てなくてはならないのです。

その第一歩として、ステップ4では、捨てるべきゴミを見つけ出す作業を行います。私たちは恨みが神との関係を最も妨げていることを知りました。そこでまず恨みを表に書き出しました。次に恐れも表に書きました。棚卸表を書くことと、それを自分で分析する作業を通じて、私たちは自分が傷つけられてばかりだと信じていたけれど、実は自分も同じぐらい(あるいはそれ以上に)人を傷つけていることに気づかされました。そこで、まず性愛に関して、自分がどのように他の人々を傷つけてきたを振り返って表に書きました。

いま、私たちの目の前には、恨み・恐れ・性についての表があります。p.103の最初の段落は、ステップ4の振り返りになっています。

人格の変化が始まる

 自分たちの個人の棚卸しをきちんとすれば、たくさんの事柄が書き出されたはずだ。私たちは恨みを書き出し、分析した。その無意味さと、死にいたる危険性が見えてきた。恐ろしい破壊性がわかり始めた。1)

恨みは私たちと神との関係を遮断して、私たちをアルコールの狂気へと引き戻してしまいます(pp.95-97、第104回

あらゆる人間、敵からでさえも、彼らを病んだ人たちと見ることから、私たちは寛容、忍耐、善意を学び始めている1)

これはステップ4に取り組むことで私たちに人格の変化(personality change)が起きることを示しています。ビル・Wが経験した急激な変化(p.21)霊的体験と呼ばれました。ステップに取り組む人のほとんどは、もっと緩やかな霊的な目覚めと呼ばれる変化を経験します。どちらもシルクワース医師霊的変化(psychic change)と呼んだものです(pp.xxxvi-xxxvii)。そして、付録Ⅱには、それが人格の変化であると説明されていました(p.266/570)

では、どのような変化が起これば良いのでしょうか? ここではその例として「寛容・忍耐・善意が身につき始める」と書かれています。恨みや恐れの表を書いていたとき、私たちは第一列に書いた人たちを「悪い人たち」と見なしており、その人たちより自分は善良な人間だと考えていました。しかし、そのように他の人を見下すことで自分の自尊心を守るのは不正直な行いであることに気づかされました。なぜなら、自分が霊的に病んでいる(神から切り離されている)のと同じように、彼らも霊的に病んでいるのであり、両者は同じ水準にいるのであって、自分の方が勝っているわけではないからです。だから私たちは、彼らを非難したり、報復したりするのはやめることにしたのでした(p.97)

このように、ステップ4ですでに人格の変化は始まっているのです。ステップ12まで待つ必要はありません。

傷つけた人の表を作る

自分の行為によって傷つけた人たちをリストにし、できるだけ過去を正す気持ちになっている。1)

私たちは誰を傷つけたのでしょうか? 性の表は、相手を傷つけたことについて書いた表ですから、その第一列に載せた人は(例外はあるかも知れないが原則的には)すべて傷つけた人ということになるでしょう。恨みの表は自分が傷つけられた側として書いたものですが、たいていは報復の応酬の中で自分も相手を傷つけているものです。恐れの表についても同じことが言えます。恨みの表と恐れの表を見返して、自分が相手を傷つけていることに気がついたら、そのことを書き足しておきましょう。こうして、恨みや恐れの表の中にも、自分が傷つけた人たちが見つかります。

傷つけたことの棚卸し
ジョー・マキューらの棚卸し表(傷つけたことの棚卸し表)

さらには、自分が誰かを傷つけたのに、それが三つの表のどれにも登場しないこともあります。例えば借金を返していないとか、何か迷惑をかけたなどです。そこで、性以外で人を傷つけたことの表を書いていきます。ジョーたちの提案している「傷つけた人たちの表」を載せておきます。この表の内容は性の表と同じです(第一列は自分が誰を傷つけたか、第二列は自分が何をしたか(=どのように相手を傷つけたか)、第三列は自己のどの部分が傷つける原因となったか)。表のPDFファイルは依存症からの回復研究会のサイトの資料室のページにあります。

こうして、四つの表の中に自分が傷つけた人たちがリストアップされます。そのリストがステップ9で埋め合わせをする対象になります。しかし、埋め合わせしたくない相手が含まれているために、このリストが作れなくなってしまう人もいます。先のことを心配せずに、この時点では、埋め合わせできるかどうかは脇に置いて、自分が相手を傷つけたかどうかを判断基準にリストを作っていきましょう。埋め合わせをしたくないという気持ちは棚卸しの段階では大きな問題ではありません。埋め合わせしたくないという気持ちが生じてくるのは、自分が相手を傷つけたことを意識するようになったからでもあります。「自分は傷つけられたのだ。相手が悪いのであって、自分は悪くない」と考えていた人が、自分も人を傷つける存在であることを意識するようになる。それは現実が見えてきたということでもあり、ステップ4の効果が表れてきたということでもあります。

こうして、恨み・恐れ・性・性以外という、基本的に同じ構造を持った四つの表ができあがりました。しかしながら、表の形式や、表をきっちり完成させることが重要なのではありません。棚卸表を書いて、それを自分で分析する作業を通じて、自分には欠点があること、それはつまり自分の考えに誤りがあるということであり、そしてその誤りが自分を苦しめているだけでなく、人を傷つける原因にもなっていることを理解する――それがステップ4で私たちに起こるべき変化です。AA以外の共同体の12ステップでは、ステップ4の棚卸しの方法も異なっている部分がありますが、棚卸しの目的は共通しており、起こるべき変化もAAの12ステップの棚卸しと同じです。

恨みについてもう少し

子供の頃に親から虐待されたことへの恨みをどう扱うかについては、これまで何度も取り上げてきました第93回第94回第100回。これについては繰り返し質問されるので、さらに説明を加えておくことにします。

すでに説明しましたが、虐待を受けたことについて、子供であった自分の落ち度を探す必要はありません。つまり、当時の自分が、違う考えや行動をしていたら虐待されなかったのではないか、と考える必要はないということです。なぜなら、子供の安全を守るのは養育者の責任だからです。

しかしそれは、自分の過ちを探さなくて良いという意味ではありません。注目すべきは、恨みを持っているのは大人である現在の自分だという点です。虐待が起きたのは、10年、20年、あるいはそれ以上前のことで、長い時間が過ぎているのにもかかわらず恨みを持ち続けてきたのです。その大半の期間を大人として生きてきたのですから、子供だったからという理由で免責することはできません。

恨みについて世間一般で言われているのは、「いったん状況の本質に気づくことができれば、恨みは捨てられる」というものです。自分の狭い視野から得られた情報に頼っているからこそ恨み続けることができるわけで、より広い視野や他の視点から全体像を捉えれば、恨むことができなくなるのです。例えば、親もアルコホリズムという病気にかかっていたのであり彼らも状況の被害者であったのだ、という捉え方です。

これは、p.97の「彼らも霊的に病んでいたのだ」という一節で説明されている捉え方と共通しています。人間は誰もが不完全な存在である以上、自分の不完全さを棚に上げて、他者の不完全さを非難し続けるのは不公正な態度である、という考えには多くの人が同意できるでしょう。だから、まずこの恨みの処理の基本原則に同意できることが出発点になります。

しかし、「それは頭では理解できるんだけど、気持ちがついていかない」と訴える人は少なくありません。つまり恨みを手放したいのに手放せないでいる、ということです。その人は、自分が正しいと思うことが行えないジレンマのなかにいるのです。それはなぜでしょうか?

心のなかで相手を非難し続けるのは不公正なことだ、という判断は、論理的な思考(=理性)によって行われています。私たちは第四章で人間の理性(や知性)には明らかな限界があることを学びました第80回第86回。理性の限界を超えている問題を理性によって解決することはできません。多くの恨みは合理的な思考によって解消できますが、根深い恨みには対処できないことも多いのです。

では、どうすればよいのでしょうか。12ステップは、人間の力によって解決できない問題を、神に解決してもらうという手法です。それはアルコールの問題だけではなく、他の問題にも応用できます。だから、神に頼む(ask)というやり方――具体的には祈りという手段が提示されていました。AAのなかでも、祈りによって恨みを克服できたという体験はしばしば分かち合われています。まだそれを試していないのなら、ぜひやってみるべきです。

虐待されたことよって生じたトラウマあるいはPTSDが、いまも自分を苦しめていると言う人は少なくありません。ここで気をつけておきたいのは、PTSD心的外傷後ストレス障害 は医学的な障害(disorder)だということです。診断基準も治療法もある程度確立しています。もし、それが医学的な問題ならば、医学的な治療を受けるべきです。ビッグブックでも、医学的な問題は医学に委ねるべきだと主張しています(p.195)12ステップや12ステップグループは、医学や心理学の代替や補完ではありません(科学による治療が可能なのであれば、それを拒んで神の力を頼るという選択をすべきではないということ)

しかしながら、治療を受けたのに良くならないという訴えも多く聞きます。なぜトラウマが回復しないのかについて、少し掘り下げた説明も必要でしょう。

まず、当事者がトラウマやPTSDと主張するものが、必ずしもPTSDの診断基準を満たすわけではありません。それらの概念が拡大解釈されていることは間違いありません。何かを説明するのに便利な概念や用語は拡大解釈される運命にあるものです。例えば、依存症という用語(あるいは概念)は、最初はアルコールなどの薬物嗜癖に限定して作られたのですが、やがてギャンブルやセックスなどの行為にも拡大して使われるようになり、最近ではゲームをやり過ぎる小学生に対してゲーム依存という言葉が使われます。愛着障害 という用語(あるいは概念)も、子供の行動の障害を説明するために作られたものですが、いまや大人の事象を説明するために使われるようになっています。

拡大解釈は自分に都合のいいように行われるものです。実は何の説明にもなっていないのに、あたかも何かを説明できたかのような勘違いが生じてしまいます。酒を飲んで我が子に暴力を振るうアル中のお父さんと、勉強よりゲームが好きな小学生を同じ概念で説明できるわけはないのですが、「依存」という言葉で何かが説明できたような気になってしまうのです。

拡大解釈のもう一つの問題は、元々の狭い概念に適用できた解決方法が拡大した対象に使えるとは限らないことです。本来の意味での愛着障害は、子育てをやり方を変えることで改善できます。しかし「大人の愛着障害」は、すでに大人になっているのでその解決は使えません。概念は拡大できても、解決法まで拡大適用できるとは限らないのです。

PTSDは治療可能であり、暴露療法 には長い歴史もあります。心理療法も科学的な方法によって評価されていることを留意すべきです。評価の対象には診断基準を満たす人たちが選ばれ、その人たちに対して有効かどうかが評価されたのであって、それ以外の人たちに対する有効性は評価の対象外なのです。

どんな治療法も100%有効ということはないので「たまたま効かなかっただけ」という可能性は捨てきれませんが、治療を受けたのに良くならなかった、あるいは治療を受けさせて貰えなかったという場合、それは医学や心理学が確立してきた治療法の守備範囲外なのかもしれません。

第93回で取り上げたように、一部のACのグループでは、トラウマやPTSDという用語を積極的に使います。しかしそれは医学的なPTSDと同一の概念ではありませんし、同一である必要もありません。AAメンバーが自分をアルコホーリクだと自分で診断を下すように、ACの人たちは(そうしたければ)自分で自分をPTSDだと診断するのです。それが医学的な診断基準を満たすかどうかは気にしなくてかまいませんが、逆に言えばそれに医学・心理学的治療が効くという保証もないのです。医療や心理師の世話になることを否定するつもりは毛頭ありませんが、「効果があれば良いが、効果がなかったとしても何の不思議もない」という割り切りは必要でしょう。

僕は診断基準を満たさないものや治療の効果がないものはトラウマではないと主張したいわけではありません。診断基準を満たさなくても、そこに何らかの苦しみや悩みがあるのは確かであり、解決が望ましい問題があるのに医学や心理学はそれを解決できない、というのが、トラウマという概念の最もややこしい点なのでしょう。

「では、私のトラウマは治らず、私は幸せになれないのか?」という問いが発せられるでしょう。まさにそれこそ問われるべきことだ、と僕は思います。虐待した親に対する恨みが捨てられない人の多くは、今の自分が幸せではないと感じています。そして、虐待によって生じたトラウマが幸せを邪魔している、と捉えています。だから、自分が幸せになるためには、まずトラウマが良くなる必要がある、と考えているわけです。

そう考えている人に対しては、「トラウマが良くならなくても、あなたは幸せになれますよ」と言うことにしています。

例えば交通事故で足に大怪我をして、車椅子での生活を余儀なくされたというケースを考えてみます。その人はもう一度歩けるようになって元の生活が取り戻せるように、懸命にリハビリに取り組むでしょう。元の生活に戻れれば、事故は一時の不幸ですみます。だが残念なことに、そうはならず、一生車椅子での生活が避けられなくなったとします。すると、その人はもう幸せにはなれないのでしょうか?

from いらすとや

もちろん、そんなことはありません。車椅子生活のままでも幸せになれます。それは、普通より困難な道でしょうし、事故が起こる前に追いかけていた夢のいくつかは諦めざるを得ないかもしれません。それでも車椅子で充実した人生を送っている人はたくさんいます。トラウマを抱えながら生きる人生も同じで、他の人よりも困難は多いでしょうが、幸せになれないという理由にはなりません。12ステップグループの中で長く回復を続けている人が、あちこち具合の悪いところを抱えていることも珍しくありませんが、それらを「変えられないもの」として受け入れて人生を楽しんでいる姿には勇気を感じます。

最後に、とても良くあるのが、親を変えるために自分が不幸のままでいることを選んでいるパターンです。ACoAの創始者トニー・A(Tony A., 1927-2004)によれば、多くのACが本当に望んでいるのは、両親が突然、愛情深い親に変身することだといいます。そして、自分がどんなに酷いことを我が子にしてしまったのかを親が認め、謝罪し、許しを請うてくることを期待しているのです。2) それを実現するためには、自分が不幸でいるしかありません。なぜなら、その時に自分が幸せに暮らしていたら、「私はひどい子育てをしたかもしれないが、結果としてあなたは幸せになったんだから良かったじゃないか」などと言われてしまいかねないからです。実際には、親が期待通りに変わることはまずあり得ないので、不幸なままでいるという選択には意味がありません。報復を望むよりも、自分が変わり、幸せになる努力をしたほうが、満足できる結果を生むでしょう。

私たちは報復や論争を避けた(p.97)

親の代わりに社会を変えようとする人もいます(なんという大きな規模の共依存でしょうか)。だがそれはうまくいかないことはすでに第94回で述べました。社会を変える必要は無いと言っているのではありません。いつ、どのように、誰が社会を変えていくのかは、人間が決めることではありません。そのことを忘れてしまうと、いつまで経っても何をやっても社会が変わらず、そのために自分がほとんど役に立っていないことに傷ついてしまうのです。まずは自分の内面を掃除することです。社会を変えるのに、恨みのエネルギーは必要ない、という実例は第105回で紹介しました。

ステップ3から先は神とともに進んでいくのだ、と説明しても、自己中心的な人にはなかなか分かって貰えません。自分がどんな行動をして自分を変えるか、ということばかりに注目が向いてしまい、自分にできないことは神にやってもらう、という視点が持てないからです。

完璧を目指さない

 この本を通して、あなたは何度も、自分ではなし得なかったことを、信仰が代わってしてくれることに気づかれる(read=読む)はずである。1)

「気づく」と訳されていますが、原文は read ですから「読む」です。ビッグブックの中には、自分たちではできなかったことを、神が私たちのためにやってくれる、という表現が何度もでてきます。ただこの箇所だけは、神(God)ではなく信仰(faith)となっています。第90回で紹介したビッグブックのオリジナル原稿(の複写本)では God となっていたことが読み取れます。おそらくはビッグブックの入稿直前に、ヘンリー・Pらの提案を受けてビル・Wが修正した箇所の一つなのでしょう(ヘンリー・Pについては cf. 第27回

神とあなたの間に、あなたの頑固な意志(self-will)が作っていた障害物を、神が取り除いてくれることについて納得していただけたならば幸いである。1)

恨みを取り除けなかったとしても、それであなたが他の人より劣っているわけではありませんし、恨みを取り除けたからといって優れているわけでもありません。むしろ、自力では取り除けない恨みがあることのほうが普通です。私たちは自分でできないことは、神に頼るというやり方を学んできました。

私たちと神の関係を邪魔する障害物は、恨みや恐ればかりではありません。ビッグブックは障害物の代表例として恨みと恐れを挙げているにすぎません。だがどんなものであれ、その障害物は私たちの意志(self-will)が作ったものです。3) 私たちは自分を神として生きることで自ら障害物を作り出し、神を拒絶してきたのです。

もしあなたがすでに心を決め、自分の膨大な欠点(grosser handicaps)の棚卸表を作ったとすれば、あなたは回復の道をもう順調に滑り出したのだ。あなたは自分についての真実の大きな塊を飲み込み、消化し始めたことになる。1)

「心を決める=決心する」とはステップ3のことです。grosser handicaps を「膨大な欠点」と訳していますが、少なくとも「膨大な」は明らかな誤訳です。gross は、ゾッとするようなとか、目に余るような、という意味です。ステップ6の説明の文章で objectionable を「自分で感情を害してしまうほどの問題」と意訳していますが(p.109)、それと意味は同じでしょう。

私たちは自分の内面の掃除に取り組んでいます。現実にゴミが積もり積もった部屋を片付けていると、その中から、カビで覆われたパンだとか、カップラーメンの腐った残り汁といった、ゾッとするゴミを掘り出してしまうことがあります。同じように、棚卸しによって見つかる欠点は、自分がそんな欠点を持っているとは思いたくないような嫌なものであることが多いのです。

私たちは、いままでずっと掃除をさぼり続けてきた汚部屋を、意を決して片付けだしたのですから、あまり細かな塵や埃まで気にする必要はありません。もっと大きなゴミがごろごろしているのですから。ですから、grosser handicaps は、ゾッとするようなという意味と、大きなという意味を合わせて「目立つ欠点」とでも訳すのが適切なのでしょう。4)

ところで、ジョー・マキューは、いまのAAで起きている最大の間違いの一つは、心身の状態が良くなってステップ4が完璧にこなせるようになるまで、皆がステップ4を延期してしまうことだ、と述べています。5)

私たちは、自分の内面の掃除をするという習慣をこれまで持っていませんでしたから、心の中は神との関係を阻むゴミだらけになっています。ビッグブックでは「徹底してやる(thorough)」という言葉が繰り返し使われているために(pp.84, 85, 99, 103)、この掃除を完璧にやり遂げたいと願う人も少なくありません。しかし、12ステップを完璧に行うのは不可能だとも述べています(pp.86-87)。ですから、徹底するとは、完璧に行うという意味ではなく、手抜きをしてはいけないという意味なのです。――ビル・Wはアルコホーリクは理由付けが好きで、このプログラムの抜け穴を探してそこからすり抜けてしまいがちだと分かっていたからこそ、徹底するようにと忠告したのでしょう。6)

自分自身の掃除

完璧な掃除に大きな意味はありません。なぜなら、家の中を完璧に掃除したとしても、そこで暮らしていれば、必ず汚れてくるからです。定期的に掃除を繰り返していかなければ、またゴミだらけに戻ってしまいます。この定期的な掃除にあたるのがステップ10です。つまり12ステップは終わることのないプログラムなのです。「私は12ステップをやった」と過去形で語る人もいますが、それが真実だとすれば、その人は過去に掃除をしたことがある=今はもう掃除はしていないと言っていることになります。その人の内面はもう元のゴミ屋敷に戻っているかもしれません。

また、最初の掃除(ステップ4~9)が明らかに不完全であったとしても、その後も地道に掃除を続けている人の家の中は次第にきれいになっていくでしょう。イソップ童話のウサギとカメ の物語は、12ステップの集まりにおいても繰り返されるのです。

スポンシーがステップ4を書き上げるまで何ヶ月も(ときには何年も!)待っているスポンサーもいますが、それは良いやり方だとは思えません。すでに棚卸表が1ページでも書けているのなら、それについてステップ5に取り掛かることもできます。スポンシーが棚卸しの効果を実感できれば、表の続きを書く意欲を持てるでしょう。

ともあれ、ステップ4を終えた私たちの目の前には棚卸表があり、そこには自分の誤り(欠点)と、誰をどのように傷つけたかが書かれています。自分の欠点についてはステップ6と7で取り組むことになります。傷つけたことについてはステップ8と9で埋め合わせを行うことになります。だが、それらの前にステップ5が待っています。次の第六章はステップ5から始まります。

今回のまとめ
  • 棚卸しに取り組んだことで、人格の変化が起こり始める。
  • 恨み・恐れの表を見直し、傷つけた人をリストアップする。
  • 傷つけたが、恨み・恐れ・性のいずれの表に載っていないことについては、(性以外で)傷つけたことの表に書く。
  • 手抜きをしてはいけないが、棚卸表を完璧に仕上げることに大きな意味はない。

  1. BB, p.103[][][][][][]
  2. Tony A., et. al, The Laundry List: The ACoA Expereince, 1990, Health Communications, ch.10[]
  3. 訳文には「頑固な」という形容詞が挿入されているが、まったくの蛇足である。[]
  4. handicap を欠点と訳すことに意を唱える人もいるが、自分で自分に課した不利な条件と解釈すれば、欠点という訳語は適切だと思われる。[]
  5. Joe McQ. and Charlie P., Joe & Charlie: The Big Book Comes Alive, 2014, p.132[]
  6. AACA, p.245[]

2024-05-16

Posted by ragi