付録B1「オックスフォード・グループからの分離」

初期のAAメンバーたちは、オックスフォード・グループと一緒に活動していましたが、後にそこから分離し、AAとして独立しました。

その分離は、一斉に起こったのではありません。『AA成年に達する』に掲載されているAAの年表によれば、ニューヨークのグループビル・Wたち)が分離したのが1937年、オハイオ州のグループドクター・ボブたち)が分離したのが1939年であり、2年ほどのズレがあります。1)

オックスフォード・グループから受け取ったもの

なぜオックスフォード・グループから分離したのかを説明する前に、AAがオックスフォード・グループから受けた恩義の多さについて述べておかねばなりません。

AAの共同創始者ビル・Wのスポンサーであるエビー・Tは、オックスフォード・グループで回復していました。また、エビーを助けたローランド・ハザードも、オックスフォード・グループのメンバーでした。

エビーがニューヨークでビルと会うことができたのは、エビーがカルバリー伝道所に滞在できたからでした。カルバリー伝道所は、当時オックスフォード・グループのアメリカにおけるリーダーの一人だったサム・シューメーカー牧師Sam Shoemakerが、カルバリー教会Calvary Churchの付属施設として作ったものです第43回

さらに、12のステップの大部分は、オックスフォード・グループのプログラムの一部を取り入れたものです。初期のメンバーたちは、オックスフォード・グループのプログラムによって回復していました。ですから、オックスフォード・グループなしには、そもそもビル・Wの回復が起きず、AAも存在しなかったことでしょう。

ビルと妻ロイスは、1934年の暮れから1937年まで、カルバリー教会の隣のカルバリーハウスで開かれていたオックスフォード・グループのミーティングに通っていました。そこで、サム・シューメーカーと親交を結び、霊的なことについて直接導きを受けました。また、夫妻はオックスフォード・グループが開く「ハウス・パーティ」という大規模な集会にもたびたび参加していました。2) AAの霊的スピリチュアルな要素の大部分は、オックスフォード・グループに由来していると言えます。

T. Henry and Clarace Williams
T・ヘンリーとクラレス・ウィリアムズ夫妻, from DBGO

もう一人の共同創始者ドクター・ボブは、ビル・Wとの出会いの2年前(1933年)からアクロンのオックスフォード・グループに加わっていましたBB, p.250)。しかし、ボブの飲酒の問題が解決していないことに気づいたヘンリエッタ・サイバーリングHenrietta Seiberlingという女性が、T・ヘンリーとクラレス・ウィリアムズ夫妻(T. Henry and Clarace Williams)の家で、ドクター・ボブの飲酒のために特別なミーティングを毎週水曜日に開くようになりました。これがビルとボブとの出会いの数週間前のことです。1935年の5月に、ビルがドクター・ボブと会うことができたのも、ヘンリエッタ・サイバーリングの仲立ちによるものでした。だから、もしオックスフォード・グループがなければ、ビルとボブが出会うこともなかったでしょう。(ちなみに、ヘンリエッタ・サイバーリングも、ウィリアムズ夫妻も、ノン・アルコホーリクでした)。3)

ビッグブックが出版されて以降、AAのメンバー数は急激に増加しました。ビッグブックが出版されたときは約100人だったメンバー数は、3年後には約8,000人に脹れあがりました。4) この急拡大には様々な理由がありますが、一つには全米各地のオックスフォード・グループに加わっていたアルコホーリクたちがAAに合流したためであると考えられています。5)

このように、オックスフォード・グループなしには、AAは始まらなかったと言える材料は数多くあります。

目的の違い

ビル・Wが、オックスフォード・グループから分離した理由の一つとして挙げているのが、目的の違いです。

オックスフォード・グループは個人の霊的改革を重要視していたものの、創始者フランク・ブックマンの目的は(一人ひとりが変わることを通じて)社会全体を改革することでした。オックスフォード・グループのプログラムは、飲んだくれたちへの働きかけに使えるという定評がありましたが、ブックマン自身はアルコホーリクには関心がなく、「私は酔っ払った国家を相手にしなくてはならない」と言っていました。6)

アルコホーリクたちには、自分が断酒を続けるために他のアルコホーリクに関わるという明確な目的がありました。オックスフォード・グループの人たちの多くはアルコホーリクに関心を持っていませんでしたから、アルコホーリクたちは自分たちだけで集まることを好みました。そこでビルは、1935年の秋には、クリントン通りの自宅で、毎週火曜日にアルコホーリクとその家族のためのミーティングを開くようになりました。(ビルがオックスフォード・グループに加わった1934年暮れには、すでにオックスフォード・グループのアルコホーリクたちは自分たちだけのミーティングを開いていたという情報もある7))。

アルコホーリクたちが自分たちの問題に専念することは、他の人たちから、オックスフォード・グループの目的をないがしろにしていると見なされました。次第にビルとロイス夫妻は、他の人たちから「maximum ではない」と非難を受けるようになりました。maximum というのは訳しづらい言葉ですが、グループの目的に十分貢献していることを示すオックスフォード・グループの用語です。

カルバリー教会の指導層からすれば、アルコホーリクが自分たちだけでコソコソ集まっているのは気に入らなかったのでしょう。1935年の暮れには、カルバリー伝道所にいるアルコホーリクは、クリントン通りのミーティングへの参加を禁じられました。これによって、ビルは事実上カルバリー伝道所のアルコホーリクに働きかけることができなくなりました(タウンズ病院だけになってしまったわけです)。

そのように排斥されながらも、ビルとロイスはオックスフォード・グループやその原理にすぐに幻滅はせず、ミーティングには参加し続けていました。

カルバリー教会の人たちがアルコホーリクに良い印象を持っていないのには事情がありました。ビルがやって来る前、彼らはアルコホーリクを何人かカルバリーハウスの二階の寝室に泊めて世話をしました。それは裕福な家の、社会的な地位のあるアルコホーリクたちでした。(カルバリーハウスは教会の隣りにあった中上流階級向けの施設で、別の場所にあったカルバリー伝道所(救貧伝道所)とは別の施設)。ところが彼らの行状が伝道所にいる男たちよりましということはなく、彼らは酒をたくさん持ち込んできて、その中の一人は、隣の教会のステンドグラスに靴を投げつけて割ってしまいました。そんなことから、オックスフォード・グループの人たちは、自分たちは世界を変えることに集中すべきで、アルコホーリクは後回しにしたほうが良いと考えるようになったのです。8) 9)

オックスフォード・グループの変化

フランク・ブックマンは反共主義 でした。これはカール・マルクス が著書のなかで「宗教は民衆の阿片である」と説いたことを根拠として、共産主義 体制のもとで宗教が弾圧されたことによるものです。(だから宗教者が反共であるのは珍しいことではありませんでした)。

一方、当時のヨーロッパでは、共産主義への反動としてファシズム 国家が形成されていましたナチス・ドイツ ムッソリーニ 政権下のイタリア)チェンバレン 宥和政策 は現在では失策と評価されていますが、当時の資本主義国家にはファシスト国家を防共の砦として使うという発想がありました。

1936年8月に、ニューヨークの新聞が、ブックマンをヒトラー の支持者だとして非難する記事を載せました。新聞は彼の「共産主義の反キリストに対する防衛戦を築いたアドルフ・ヒトラーのような人物を遣わしてくれたことに対して、神に感謝する」という言葉を取り上げました。ブックマンは実際にはナチ党員でも、ナチのシンパでもありませんでした。彼は、ヒトラーのような人物を回心させることができれば、世界にとって大きな意味を持つと考え、ヒトラーと接触を図りましたが、直接会うことはできなかったようです。

この記事に対する反応は概ねにおいてブックマンを擁護するものでしたが、この一件によってオックスフォード・グループは公の論争に巻き込まれることになりました。ブックマンはそれをグループの性質を変えることに利用しました。

それまでオックスフォード・グループは個人の霊的改革に主眼を置いていましたが、これ以後は社会の改革へと比重が移っていきました。個人的で親密な小規模のミーティングが、大規模な集会に人々を動員する方法へと変わっていきました。どちらも、アルコホーリクにとってはありがたくない変化でした。アルコホーリクだけでなく、初期の小規模で、親密で、非政治的で、無宗派のオックスフォード・グループを愛した信奉者の多くがグループの変化に疑問を感じ、離れていきました。5)

絶対性の問題

オックスフォード・グループには、四つの絶対性(The Four Absolutes ― 絶対正直、絶対純潔、絶対無私、絶対愛)という道徳規準がありました。ビル・Wによれば、AAメンバーにとっても正直・純潔・無私・愛は目標であり、実践されているものの、その前に「絶対」という言葉がつくと、多くの人を遠ざけてしまうか、あるいは逆にアルコホーリクに一時的な霊的な慢心をもたらしてしまう(そしてやがてそれは崩壊する)というのです。10) 11)

大体どのアルコホーリクも、最初はともかく酒をやめることしか希望せず、それ以外のことは望まなかった。酒以外の自分の短所に執着し、本当に少しずつしかそれらを手放さなかった。「何もかもがすぐに良くなる」ことを望まなかっただけなのだ。オックスフォード・グループの絶対の概念――絶対の純潔、絶対の正直、絶対の無私、絶対の愛――これらは酒飲みにとっては手に余る場合が多かった。これらの観念は、バケツで与えられるのではなくティー・スプーンでほんの少しずつロに入れられなければならなかった。12)

結果としてAAは四つの絶対性を採用しませんでした。ワリー・P(Wally P., 1945-)は、AAは四つの絶対性の代わりに、その逆の四つの欠点(利己的・不正直・恐れなど)に注目するようになったとしています。13)

無名性の問題

オックスフォード・グループは、有名な人たちを自分たちの信仰に「転向」させることで、有名でない多くの者たちの救済を加速できると考えていました。何も際だったところを持たない平均的なアルコホーリクがこうした考え方に魅力を感じることはありませんでした。また、大規模な集会で大衆に向かって話し、注目を浴びたアルコホーリクは慢心して飲んでしまう傾向がありました。5)

静かな時間の導き

オックスフォード・グループでは静かな時間Quiet Timeという黙想が行われていました。これは祈りに続いて黙想を行います。黙想のあいだに頭に浮かんだことを紙にメモし、それを後で四つの絶対性に照らし合わせることで、神の意志であるかどうかを判定し、そのようにして得られた導きに従って行動していくという実践でした。これは一人で行うことも、親しい人と一緒に行うこともできましたし、複数人で「チーム」を組んで行われることもありました。特に初心者は誤った導きを得ることが多いので、他の人と話し合ってチェックすることが望ましいとされていました。

ところがオックスフォード・グループのなかで、アルコホーリクたちは常にチェックを受ける側でした。もちろんアルコホーリクたちが、そのようなチェックを受けることを歓迎するはずがありませんでした。14)

オックスフォード・グループの変化とともに、古いメンバーたちは高圧的なやり方を取るようになりました。古参のメンバーたちで構成された「チーム」が新しいメンバーに対する導きを直接受け取って指示を出すようになりました。その指示に従わなければ、冷淡なあしらいをすることによって、反抗者に拒絶を感じさせました。11)

祈りと黙想の習慣的実践は、AAにも取り入れられました(ステップ11)。祈りと黙想によって神の意志を受け取るということも明確にされています。得られた神の導きが自分の意志によって歪められている可能性についても述べられています。しかし、導きを紙に書き留めることや、他の人のチェックを受けることは、ビッグブックでも、12&12でも触れられていません。

ワリー・Pの復刻したAAのビギナーズ・ミーティングである「バック・トゥ・ベーシックス」では、黙想のあいだに得られた導きを紙にメモし、その後で皆で分かち合いを行うものの、熟練者が指導を行うというやり方は採用していません。

ニューヨークにおける分離

オックスフォード・グループの変化は、社会の改革に関心を向けたことだけではありませんでした。グループの指導層の独断主義が増し、そのせいで「宗教性を強調」するのではなく、むしろ宗教そのものになった、と評されました。15)

サム・シューメーカー、フランク・ブックマン、あるいは彼らが認めた代理人による承認を得ない限り、その人が神から得た導きは疑わしいものだとされるようになりました。だから、ビル・Wが、自分はアルコホーリクに専念すべきだという導きを得たと主張しても、そのことには疑問を差し挟まれてしまったわけです。

さらに、オックスフォード・グループは「すべてオックスフォード・グループのおかげである(I owe it all to the Oxford Group)」と言うようにメンバーに求めていました。16) 宗教のなかには信者にそのようなことを要求するところがあります。

もちろんビルはそのようなことは言えませんでした。AAの原理の大部分がオックスフォード・グループから受け継いだものであるにしても、その他にもシルクワース医師や、カール・ユング医師、ウィリアム・ジェームズから受け取ったものも重要であり、特にAAが医学から受けた恩恵は大きなものがあります。ビルは、オックスフォード・グループに対して感謝の気持ちを表明していたものの、すべてはグループのおかげとは言えませんでした。

ビルは、アルコホーリクを助けるという目的に合致している限りは、いかに冷淡にあしらわれようともオックスフォード・グループとの付き合いを続けました。しかし、「1937年の後半にはこの偉大な友人たちとは甚だ不承不承ながら、違う道を歩むことになった」と述べています。17)

ですから、その後に書かれたビッグブックには、オックスフォード・グループの名前はおろか、関係性をうかがわせる記述すらありません。エビーを助けた男たち(ローランドら)がどんな集団に属していたのか、エビーの持った信仰はどのようなものだったのかBB, p.12)、ドクター・ボブが参加した集まりが何だったのか(p.250)、すべて読者にとっては謎のままです。

アクロンでの事情

ビッグブックの第七章に、

このような気楽な集まりに加えて、週に一度、霊的な生き方に興味がある人なら誰でも出られる会合を開くことが慣例になっていった。仲間の親睦や触れ合いとは別に、新しい人がその人の問題を持ち込める時間と場所を提供するのが、その目的だった。18)

という一文がありますが、これが前述のT・ヘンリーとクラレス・ウィリアムズ夫妻の家で水曜日に開かれていたミーティングのことです。19) 現在のオープン・ミーティングの前身と言えるものです。このミーティングは、ドクター・ボブの飲酒の問題のために、ヘンリエッタ・サイバーリングの依頼で始まったものですが、ボブの酒がとまった後も続けられていました。

T. Henry(s House
T・ヘンリーとクラレスのウィリアムズ夫妻の邸宅, from DBGO

T・ヘンリー・ウィリアムズは、タイヤのゴム加工に関する発明家で、裕福なノン・アルホーリクでしたが、その大きな家を、アルコホーリクたちの集まりのために使わせてくれました。アルコホーリクたちが、戸口や漆喰を傷つけたり、椅子が足りないからと二階から椅子を下ろしてきたり、カーペットにタバコの焼け焦げを作ったりすることを許してくれました。20) 21)

そんなわけで、ニューヨークとは違って、アクロンのアルコホーリクたちは、自分たちがオックスフォード・グループで歓迎されていないと感じることなく過ごせていました。ドクター・ボブの家も、他のメンバーの家も小さかったため、多くのアルコホーリクが集まることはできませんでした。初期のAAメンバーはウィリアムズ夫妻という篤志家に大いに助けられていたのです。

ところが、そんなウィリアムズ夫妻やヘンリエッタが、オックスフォード・グループの中で高く評価されていたわけではありません。夫妻がアルコホーリクに関わっていることを非難する人たちも存在しました。22) 当時はアルコホリズムが病気であることは一般には知られておらず、アルコホーリクは道徳的に堕落した人たちであると見なされていたので、それも無理ないことでした。

カトリックとの関係

ビル・Wが加わった頃のオックスフォード・グループは無宗派であることを徹底しており、カトリック 教徒も加わっていました。23) ところがオックスフォード・グループは、教会は時代遅れになっているので変わる必要があり、メンバーはむしろこちらのグループに寄付をすべきだと主張するようになりました。結果として、カトリック教会は、信徒がオックスフォード・グループに出席するのを禁じるようになりました。

そのことは、ビルたちにとって見れば、オックスフォード・グループと一緒にやっている限り、カトリック教徒にはアプローチできなくなったことを意味しました。ビルはそれが分離の大きな理由だと述べています。11)

実際には、1937年の分離の時点ではニューヨークのAAにカトリック教徒はおらず、ビッグブックの出版直前の1939年1月に加わったモーガン・R(Morgan Ryan)が最初でした。24) 25)

ニューヨークでの分離がアクロンに与えた影響

1937年のニューヨークでの分離が、アクロンのアルコホーリクたちに与えた影響について、ビル・Wはこのように語っています:

「アクロンでは、一九三九年に本が出版されるまで、地元のAAメンバーといえば、すなわちオックスフォード・グループの会員だった。すくなくとも多くの人は、そう考えていた。(中略)クリーブランドやアクロンにいる古くからのメンバーは、すでにオックスフォード・グループではないと理解していたが、T・ヘンリー・ウィリアムズのお宅でミーティングを続けているかぎり、私たちとしても、かんたんに看板を替えるわけにもいかなかったのである」26)

ドクター・ボブは、ウィリアムズ夫妻やヘンリエッタに大きな恩義を感じており、彼らの家でミーティングを行っている以上、オックスフォード・グループの一部というかたちを保ち続けていました。

ビッグブックの出版(1939年4月)は、アクロンのオックスフォード・グループの人たちにショックを与えました。その本にオックスフォード・グループへの言及が一切なかったからです。書かれていたのは12のステップであり、四つの絶対性については何も触れていませんでした。27)

クリーブランドの分離

アクロンより北に50Kmほど離れたところにクリーブランドという都市があります。1938年の初めに、その街からクラレンス・S(Clarence Snyder, 1902-1984)という当時35才の青年がドクター・ボブの元に送られてきました。クラレンスは退院すると、そのままT・ヘンリー宅のミーティングに参加し、以後毎週水曜日には、妻ドロシー(Dorothy)と一緒に50Kmの道のりを車で走って、このミーティングに出席するようになりました。それだけでなく、彼はクリーブランドで他のアルコホーリクを助け、やがて車2台に8人が乗って通ってくるようになりました。28)

ところが、クラレンスが助けたアルコホーリクはカトリック教徒が多かったのです。彼らは次第にアクロンのミーティングに行くのを渋るようになりました。使っている聖書や教義の違いがその理由でした。また、人数が増えたために車に乗せきれなくなったという事情もあり、クリーブランドでミーティングを開くという考えが生まれました。

これについてクラレンスとドクター・ボブが話し合いをしましたが、ドクター・ボブはオックスフォード・グループがカトリックを締め出しているのではなく、カトリック教会が教徒の参加を禁じているのだから、私たちにできることは何もないという意見でした。クラレンスはそれを形式主義だと非難し、「あの人たちのためにできることはある」と主張しました。

カトリックだけでなく、プロテスタント の宗教者のなかにも、アルコホーリクたちがオックスフォード・グループと一緒にやっていることを懸念する声がありました。それは、ブックマンによってオックスフォード・グループ(1938年にはすでにMRA(道徳再武装)と名前を変えていた)がより宗教性を増したことに対する反動だったのでしょう。アルコホーリクを救うという目的のためには、排他的な団体に属していることが足枷となりました。

ちょうどその時に、法律家でクリーブランドに大きな家を持っていたアル・G(Al G.)がメンバーに加わり、自分の家を会場として提供しました。

こうしてクリーブランドの一団は、T・ヘンリーの家でのミーティングに別れを告げ、地元でアルコホーリクとその妻たちだけのミーティングを開くようになりました。1939年5月11日のことでした。この集団がアルコホーリクス・アノニマスと名乗った最初の集団でした(したがって、これを最初のAAグループだとする説もあります)。オックスフォード・グループの一部の人たちが、このミーティングに押しかけて非難したために、分離はますます確定的になりました。

アクロンのアルコホーリクたちは、新グループ発足のいきさつはともかくとして、このグループを全面的に支持し、今度はドクター・ボブたちが、車でこのミーティングに毎週通いました。

この分離は、AAでは、いかなる理由であれ、そう望むのなら、グループから分離してもう一つのグループを作ることができる、という最初の実例になりました。「AAで新しいグループを始めるために必要なのは、恨みとコーヒーポットだけである」と言われるとおりなのです。29)

クリーブランドでは、この年の秋には爆発的なメンバー数の増加が起こり、それをきっかけにAAは急速に成長していくことになります。

アクロンでの分離

クリーブランド・グループが分離した数ヶ月後、アクロンのアルコホーリクたちがオックスフォード・グループから分離しました。ウィリアムズ夫妻の家でのミーティングから去るという決定は、ドクター・ボブにとっては辛いものでした。1939年の11月にはビル・Wがアクロンを訪問し、翌月にはドクター・ボブがニューヨークを訪問しました。おそらくこの時に、アクロンでの分離が話し合われたのでしょう。

ニューヨークから戻ったボブはT・ヘンリー・ウィリアムズと話し合いを持ちました。そして、分かれることが決まり、最後のミーティングで、メンバー一人ひとりが、T・ヘンリーの側に残るか、ドクターについていくかを選びました。30) ヘンリエッタ・サイバーリングは怒りを露わにし、ドクター・ボブを非難しましたが、ボブとアンは、何も言わずに去りました。ボブの小さな家で、アルコホーリクとその妻たちだけのミーティングを数回開いた後、キングスクールという小学校に会場を移して続けられました。このようにして、1939年の暮れに、AAはオックスフォード・グループ(MRA)からの完全な分離を遂げました31)

アルコホーリク全員がAAに移ったわけではなく、オックスフォード・グループに残った人たちもいました。T・ヘンリーの家でのミーティングは、1954年まで続けられました。20)

ヘンリエッタ・サイバーリングは、その後AAメンバーと一緒に活動するようになったものの、以前の様な積極的な関わりはしなくなりました。後にニューヨークに移住し、1979年に亡くなるまでそこで過ごしました。

シューメーカーの謝罪

サム・シューメーカーはビルとロイスがオックスフォード・グループを離れたことについて思い悩んでいましたが、ビルたちと話をしようとはしませんでした。その後、シューメーカー自身も1941年にフランク・ブックマンやオックスフォード・グループとの関係を断ち、ビルに謝罪の手紙を送りました。

If you ever write the story of A.A.’s early connection with Calvary, I think it ought to be said in all honesty that we were coached in the feeling that you were off on your own spur, trying to do something by yourself, and out of the mainstream of the work. You got your inspiration from those early days, but you didn’t get much encouragement from any of us, and for my own part in that stupid desire to control the Spirit, as He manifested Himself in individual people like yourself, I am heartily sorry and ashamed.32)


もしあなたが、AAがその初期にカルバリーと関係を持っていたことについてお書きになるのであれば、私たちが、あなたが自分の動機に駆り立てられて道を外れ、自ら何かを成し遂げようとして運動の主流から外れていったという見方しかできなかったのだと、ありのままにお書きになるべきだと考えます。あなたが、あの早い時期から霊感インスピレーションを得られていたというのに、私たちの誰からもしかるべき励ましを得ることなく、主はあなた自身のような人々の中に自らをお現わしになるというのに、私はと言えば、精霊を思いのままにするという愚かな欲望に駆られていたのであり、そのことを心から申し訳なく思い、恥じ入るばかりです。(拙訳)

1955年にセントルイスで行われたAAの20周年を記念するインターナショナル・コンベンションでは、カトリック教会を代表してエド・ダウリング神父Edward Dowlingが、プロテスタントを代表してサム・シューメーカー牧師が講演を行いました。

振り返って

AAのオックスフォード・グループの分離は、大きく二つの理由にまとめることができると思われます。

一つは、オックスフォード・グループの大きな変化にアルコホーリクたちがついていけずに、置いてきぼりにされたということです。このため、アルコホーリクたちは、当初のオックスフォード・グループが持っていた、小規模で、親密で、非政治的で、無宗派の集まりを維持するために、オックスフォード・グループから分離したと言えます。

もう一つは、AAの持つ霊性(スピリチュアリティ)の概念が、オックスフォード・グループのものから次第に離れていったことです。アルコホーリクを救うことを重視し、宗教性を取り除いていった結果として、宗教色・宗派色を強めたオックスフォード・グループとは一緒にやっていけなくなったのです。AAはアルコホーリクたちが、多種多様なハイヤー・パワーの概念を選び取ることを良しとするようになりましたが、オックスフォード・グループの人たちにしてみれば、電球や三番街のバスなどを「自分なりに理解した神」の実例として受け入れることは、到底できなかったのです。33)

オックスフォード・グループの新しい名前(MRA、道徳再武装)に込められたブックマンの願いにもかかわらず、第二次世界大戦が起こるのを防ぐことはできませんでした。しかし戦後において、MRAが各国の対立解消と和解に貢献したのは疑いないことです。しかしながら、ブックマンの強引とも言える方針転換と中央集権化は多くの離脱者を生み出し、このグループの持つ力を削いでいきました。歴史に「もし」はないと言われますが、もしその損失がなければ、より多くのことが成し遂げられたかも知れません。

AAではその後、12の伝統というもう一つの霊的な原理が確立されました。12の伝統は「一体性の原理である」とされますBB, p.256)一体性(unity)とは「一つである(oneness)」こと34)、つまり、AAが複数の団体に分裂してしまわないことを意味します。歴史上、多くの国や、宗教や、政党や、様々な運動体が、理念や考え方の違いから分裂し、細分化され、有効性を失ってきました。オックスフォード・グループもその例外ではありませんでした。そこでAAは、メンバー間・グループ間で考え方ややり方がいかに違おうとも、一つのAAという団体であり続け分裂しないことで、有効性を保っていくことを決めたのです。(中国語のAAでは、一体性を「団結」と訳しています)。これも、オックスフォード・グループの分離から学んだことでありましょう。


  1. AACA, pp.vii-viii []
  2. PIO, pp.127, 168-169 []
  3. DBGO, 第五章 []
  4. AACA, p.468 []
  5. PIO, p.170 [] [] []
  6. PIO, pp.130-131 []
  7. Francis Hartigan, Bill W.: a biography of Alcoholics Anonymous co-founder Bill Wilson, St. Martin’s Press, 2000, p.95 []
  8. Mel B., Ebby: The Man Who Sponsored Bill W., Hazelden, 1998, p.74 []
  9. Jim B., (20) 初期のAA 『ビル・Wに問う』 []
  10. PIO, p.172 []
  11. Jim B., (7) オックスフォード・グループについて『ビル・Wに問う』 [] [] []
  12. AACA, pp.112-113 []
  13. ワリー・P(ジャパンマック訳)『バック・トゥ・ベーシックス』, ジャパンマック, 2016, pp.105, 160, 167 []
  14. DBGO, pp.144-145 []
  15. Hartigan, p.96 []
  16. PIO, p.174 []
  17. AACA, p.112 []
  18. BB, p.233 []
  19. DBGO, p.143 []
  20. DBGO, p.85 [] []
  21. AACA, p.114 []
  22. DBGO, p.178 []
  23. オックスフォード・グループはメインライン・プロテスタント の牧師たちがリーダーだった。 []
  24. AACA, pp.256-257 []
  25. アクロンでは、1936年4月にジョー・D(Joe Doppler (Doeppler?))がドクター・ボブに助けられた。彼がAAで最初のカトリック教徒だとされる。彼の体験記 The European Drinker は、ビッグブックの初版から第三版まで掲載されていた ― Glenn F. Chesnut, Father Ralph Pfau and the Golden Books, iUniverse, 2017, p.151 []
  26. DBGO, p.227 []
  27. DBGO, p.226 []
  28. DBGO, p.207 []
  29. DBGO, 第12章 []
  30. アノニミティの回で取り上げたローリー・Hのように、いったんオックスフォード・グループを選び、後になってAAに移った人もいました。 []
  31. DBGO, 第16章 []
  32. PIO, p.178 []
  33. DBGO, p.234 []
  34. Merriam-Webster, Merriam-Webster Dictionary (m-w.com), 2020 []