ビッグブックのスタディ (25) 医師の意見 16
この連載も、第17回で「霊的変化が起これば回復できる」(回復=霊的目覚め)という説明をしたあとからビッグブックを離れてしまいました。
第18回 | AAの三冊のテキストでの用語の使われ方 |
第19回 | 12&12でのアレルギーと強迫観念 |
第20回 | NAやGAのテキストでのアレルギーと強迫観念 |
第21回 | キュー渇望 |
第22回 | アディクションの歴史 |
第23回 | 「アルコホリズムやアディクションと言えるのは、依存症の中の一部分だけ」という話 |
第24回 | 薬物の摂取方法による身体的渇望の違い |
今回 | キュー渇望と強迫観念の関係 |
今回はキュー渇望と強迫観念の関係を取り上げ、次回からビッグブックの「医師の意見」に復帰する予定です。
キュー渇望と再発防止プログラム
まず、おさらいです。ビッグブックで扱っている身体的渇望と、キュー渇望には違いがあります。身体的渇望はアルコールを飲んだ後に起きてくる「もっと飲みたい」という欲求です。
それに対してキュー渇望(一般に依存症の渇望と呼ばれているもの)は、しらふのときに、酒を飲んでいた頃と似たような刺激を受けると、飲みたいという欲求が湧き上がってくる現象です。アルコホーリクの場合には、これは飲酒欲求の高まりとして感じられます。やめ続けたいと願っているのに、飲みたいという欲求が高まってきてしまうし、こらえきれずに飲めば再発してしまうのですから、実に悩ましいものです。だから、回復を続けるためにはキュー渇望への対処が必要になってきます。
ところがAAやNAは、着目点が違う(詳しくは後述)ので、キュー渇望への対処はあまり重要視していません。「ミーティングに通いなさい」「スポンサーや仲間に電話しなさい」「空腹を避けなさい」というようなアドバイスはあるものの、積極的にキュー渇望に対処するプログラムは用意されていません。
酒や薬をやめて間もない頃は激しいキュー渇望が起こりやすいものです。しかし飲まない(使わない)期間が長くなっていくとキュー渇望の頻度も強さも減っていくことが経験的に分かっています。キュー渇望は古典的条件づけ によるものとされているので、その消去が起きると考えられます。アルコール依存症の標準的な入院期間は2~3ヶ月に設定されている場合が多いのですが、それは断酒初期の「危険な時期」を乗り越えるのに役に立っていると思います。
であるにしても、回復初期にはこのキュー渇望がスリップをもたらしやすいのも確かです。それに対処するための再発防止プログラム(Relapse Prevention Program, RPP)が生まれました。これはAAやNAの回復プログラムを補うもので、回復の初期に起きやすい再発を防ぐために、専門家が通院プログラムの中で行うグループ療法です。日本でよく知られたRPPとしては、せりがや病院(現神奈川県立精神医療センター)で作られたSMARPP が挙げられます。
ここではSMARPPや他のRPPの中身には触れませんが、どのRPPにも、キュー渇望を起こす刺激の同定と対処法の習熟が含まれています。キュー渇望が起きやすい刺激や状況は一人ひとり違うので、それを突き止め、どのようにそれに対処していくか考え、それを身に付けていきます。グループ療法として行われるので、他の人の対処方法が参考にできるという利点があります。日本では、薬物問題の相談や治療を引き受けてくれる相談機関・治療機関が少なく、たらい回しにされることが多かったなかで、支援者が提供できる実際的なプログラムを開発し普及させたSMARPPの功績は大きいと言えます。
では、SMARPP(や他のRRP)があれば、AAやNAやダルクは要らなくなるのでしょうか? SMARPPはAAやNAやダルクの代替にはならない、というのが僕の率直な考えです。なぜならSMARPPは、治療の中断が多い薬物依存において、治療を継続させ、初期の再発を減らし、NAなどでの回復へと橋渡しすることを目標に作られたプログラムであり、その「回復の入り口」としての性質は現在も変わっていないからです。役割が違うのだから、AA・NAとSMARPPのどちらが優れているという比較はできませんし、相補関係にあると言えます。
スリップはキュー渇望が引き起こすのか?
では、スリップはすべてキュー渇望が引き起こすのでしょうか? 答はノーです。
欲求が再発への駆動力になっているのは間違いありません。なぜなら、スリップが私たちの「やめ続けたい」という意に反して起きているにしても、その行動は自分で起こしているのですから、酒を飲みたいという欲求がスリップの背後にあるのは確実です。スリップするときに、飲酒への欲求を当人が意識できていなかったとしても、欲求はあるはずです。
一方で、飲めばどうなるかは、これまでの経験から(あるいは教育によって)十分によく理解できているはずです。その経験や知識が「やめ続けたい」という願望をもたらし、抑止力になってくれます。普段はこの抑止力が勝っているから、スリップが防げていると考えられます。
しかしスリップが起こるときに私たちの頭の中で起きていることは、理性が欲求に打ち負かされるというよりは、狂った思考に支配される、と表現する方が相応しいです。例を挙げるとビッグブックのp.224から、ビル・Wがドクター・ボブと出会う前にスリップの危機を迎えた場面が描かれています。
ビルは事業に失敗し、かかった経費を支払う金もなく、見知らぬ町で孤独にホテルのロビーをうろついていました。ロビーの端にはバーがあり、そこからは酒を飲む人たちの楽しげな談笑が聞こえてきました。そこでビルはこう考えました。酒を飲むわけにはいかないが、ジンジャーエールを片手に明るい顔をしていれば、あの楽しそうな輪に入れるだろう。いや、半年も飲んでいないのだから、三杯までなら酒を飲んでも大丈夫じゃないか・・・。
もちろん彼はそれが事実ではないことを知っていました。自らの経験とシルクワース医師から教えられた知識は、自分はもう正常に酒を飲めないことを教えてくれました。しかし、「三杯までなら大丈夫」という考えは、次第に彼の頭の中で大きくなり、事実を脇に押しやって、非合理的な考えを彼に信じさせるようになっていきました。これが強迫観念と呼ばれるもので、それによってスリップが行動化されるのです。
ジョー・マキュー(Joe McQ, 1928-2007)は強迫観念をこう説明しています:
他のどのような考えも圧倒してしまう強烈な考え1)
an idea that overshadows and overcomes all other ideas2)
強迫観念とは、他のすべての考えを打ち消して、事実でないことを信じさせるほど強力な考えのことである。3)
an obsession is any idea that overcomes all other ideas, and it is so stong that it can make you believe thing that aren’t true. 4)
幸いなことにビルは、スリップの一歩手前でロビーにあった教会のリストを見つけ、電話をかけて別のアルコホーリクを探すことで、そのピンチを凌ぎました。もしそこに教会のリストがなかったら、ビルはスリップしてしまい、ドクター・ボブと会うこともなく、AAも始まらなかったでしょう。
RPPが回復の初期に頻度が高いキュー渇望に焦点を当てているのに対し、12ステップは一生続く私たちの回復の中で起こりうる強迫観念を対象にしているのです。
スリップの準備性
スリップがキュー渇望によって起こるにせよ、強迫観念によって起こるにせよ、スリップが起きやすい状態と、比較的安全な状態があるのは確かです。これをスリップの準備性(slip readiness)という言葉で表現することにします。本当は再発準備性という言葉を使いたいところなのですが、依存症においては再発準備性(独:rezidiv bereitschaft, 英:relapse readiness)という言葉は、すでに別の意味で使われています。5) そこで、新しい言葉を作ることにしました。
AAの中を見渡してみれば、すぐにでもスリップしそうな仲間もいれば、安定した状態の仲間もいることが分かるでしょう。それをスリップの準備性という言葉で表現します。では、何が準備性を高めるのでしょうか?
下の図は、テレンス・T・ゴースキー(Terence T. Gorski, M.A.)の『クレイビングを切り抜ける』という冊子の中身を元に作りました。彼はRPPを専門としており、その専門書も多く出していますが、ここでは当事者向けの冊子を取り上げることにします。
ゴースキーは、段階(stage)という表現を使っていますが、ここでは彼のステージ1を準備性低い、ステージ2を準備性高いと表しています。
準備性の低い青い状態を取り囲んでいるのは、準備性を押し上げる幾つかの要素です。
薬物使用による脳の機能不全は、長期間の飲酒や薬物使用の影響が脳に残っていることです。アルコール依存・薬物依存の脳のSPECT画像は、酒や薬物の影響で脳の活動が低下している様子をSPECT を使って視覚化したものです。脳の機能はソブラエティ(クリーン)を続けることによって改善していきますが、回復の初期には機能の低下がスリップ準備性のベースラインを押し上げています。
不健康な食生活・運動不足も準備性を押し上げる要素です。入院や施設に入ると、食事がある程度管理されるメリットがあります。また久里浜方式6)で行われていた行軍や、ダルクの人が筋トレやサーフィンをするのも、運動不足を解消して、スリップの準備性を下げるというメリットがあるわけです。
タバコやコーヒーの過剰摂取について、ゴースキーはニコチンやカフェインの大量摂取によって再発のリスクが高まるとしています。7) タバコもコーヒーも控えめにするのが、アルコールの再発リスクを下げることになります。
貧弱なストレス処理とは、黙想のようなストレスケアを軽視する態度です。
心理的なセットアップとは、ソブラエティ(クリーン)の価値が軽んじられたり、しらふでいることをつまらなく感じるようになることです。
コミュニケーションの欠如や薬物を使う人たち(酒を飲む人たち)との交流は、AAやNAのミーティングに行き、仲間と交流することで防ぐことができます。
そして、最も難しいのは人間関係の葛藤です。アルコホーリクに限らず、人は誰でも生きている限り人間関係の葛藤と無縁ではいられませんから、防ぐことが難しいものです。
こうした様々な要素によって、スリップしやすい状態へとセットアップされていきます。(逆にこれらの要素を解消することで、セットアップを解除してスリップしづらい状態へと下げることができるとも考えられます)。8)
この準備性が高まった赤い状態では、外部からの刺激によるキュー渇望が生じやすく、またスリップの行動化も起きやすいというわけです。実際のスリップの前には、自らアルコールや薬物を探索する行動があります。
キュー渇望と強迫観念
「キュー渇望をうまく乗り越える方法があればスリップしなくて済むのに」という考えから、その方法を教えてくれと真面目に質問してくる人もいるのですが、そのような都合の良い方法はなく、日頃から地道にスリップの準備性を下げる努力を続けるしかありません。
そのためには上記の要素一つひとつに対処していくことになりますが、先にも述べたように、最も難しいのは人間関係の葛藤やストレスに対処していくことです。というのも、アルコールや薬物はストレス対処の手段として、また葛藤から一時的に逃れて精神を休める手段として使われることが多く、その手段としての酒を奪われたアルコホーリクは、葛藤やストレスにしらふで対処していくことに不慣れだからです(第15回)。
セットアップされた状態で、いったんスリップの行動化が始まったときには、もう私たちは自分でその行動を止められなくなっています。その時には、私たちの頭の中は不合理な考え(強迫観念)で占められていて、理性的な行動は取れなくなっているからです。
準備性を下げるには、様々なことが必要です。12ステップはそのなかでも、他の手段での対処が難しい人間関係の葛藤やストレスに対処するためのものだと考えればわかりやすいのではないでしょうか。
12ステップは生き方を変えるプログラムだと言います。では生き方とは何でしょう。人間は徹底的に社会的動物なので、一人では生きられず、必ず他の人との(あるいは社会との)付き合いが必要になります。これを「神は互いを必要とするように人を作った」と表現することもできます。私たちが社会の中で生きていれば、当然ながら人間関係の葛藤とストレスが生じます。つまりどのように生きるかとは、どのように人と付き合っていくかに他なりません。12ステップはそれを扱っているのです。
最後に、この「スリップの準備性」というのは、決定論 的なものではなく、確率論 的なものです。セットアップされた状態ではスリップのリスクが高いというだけで、必ずスリップするわけではありませんし、準備性が低い状態からでもスリップはあり得ます(確率が少ないと言うだけ)。準備性を測る信頼性の高い指標はなく、現実をうまく説明してくれる一つの概念に過ぎないことを申し添えておきます。
次回はビッグブックに復帰するつもりでいます。
- キュー渇望に対処するプログラムとしてRPP(再発防止プログラム)がある。日本での代表例がSMARPP。
- RPPとAA・NAは、着目点が違い、相補的な関係にある。
- スリップは必ずしもキュー渇望が引き起こすわけではない。
- スリップするときには頭の中が強迫観念で占められている。
- スリップの準備性はいろんな要素で高まり、それらに一つひとつ対処していく必要がある。
- 頭の中が強迫観念で占められ、スリップの行動化が始まると、もう自分ではとめられない。
- 12ステップは人間関係の葛藤とストレスへの対処を扱っている。
- PFY, pp.47-48[↩]
- Anonymous, A Program for You: A Guide To the Big Book's Design for Living, Hazelden Publishing, 1991, p.39.[↩]
- PFY, p.49.[↩]
- Anonymous, op. cit., p.40.[↩]
- 何年酒をやめていても飲み出せばやがて元の飲み方に戻ってしまうことを指す。[↩]
- 久里浜方式は、日本最初のアルコール専門病棟が作られた国立療養所久里浜病院(現久里浜医療センター)で、河野裕明(1927-)・堀内秀(なだいだな , 1929-2013)らによって作られた3ヶ月の入院治療プログラムである。その後、全国のアルコール病棟に広がった。行軍はなだがヨーロッパ視察で見た自然療法を取り入れたもので、数キロの道のりを全員で歩くものだった。後に身体合併症のある入院患者が増えたことで行軍への参加比率が下がったため、行われなくなった。[↩]
- テレンス・T・ゴースキー他(梅野充訳)『アルコール・薬物依存症の再発予防ガイド―ソブラエティを生きる』, 星和書店, pp.111-112.[↩]
- 『クレイビングを切り抜ける』の麻生克郎医師による翻訳では、set-up をお膳立てと訳しているが、ここではカタカナ語を使うことにした。[↩]
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