ビッグブックのスタディ (117) 行動に移す 9
能動的な行動が必要なステップ
今回はステップ11です。123ページの先頭から:
だから毎日、私たちは心に描く神の意志を、自分のどんな行動にも実践していかなければならない。「どうしたら私は、あなたの最良の道具になれるでしょうか。私の意志ではなく、あなたの意志が行われますように」。1)
私たちはステップ3で「意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる」決心をしました。私たちは、勝手に引き受けていた演出家(director)の役目を神に返上し、これからは神からの指示(direction)を受け取って、それに従って生きていくという目標を定めました(第100回・第101回)。そして、その理想に向かって進み始めました。
ところが、その理想の実現を邪魔しているものがありました。私たちと内なる神との間にはさまざまな障害物が存在し、私たちが神と触れあうことを邪魔していたのです。そこで私たちはその障害物を取り除くために自分の内面の掃除(house-cleaning)を始めました。それがステップ4から10でした。
12のステップは完全に実行することはできない原理です(pp.86-87)。だから掃除をしても、障害物が完全に取り除かれることはありません。しかし、掃除を始める前に比べれば、多少なりとも神と自分が接触できるようになってきているはずです。それは私たちは神からの指示を受け取れるようになったことを意味します。ただし、神の意志を受け取るためには私たちの能動的な行動が必要です。
ビッグブックでは私たちと神との関係について障害物(block/obstacle)というキーワードを使って説明していますが、『12のステップと12の伝統』では、私たちと神との間は channel によって結ばれているというアナロジー を使っています。channel は現在の日本語訳ではパイプや水路と訳されていますが、通信路という意味です。2) 私たちはこの通信路を使って神とコミュニケーションします。しかし恨みや恐れなどがこのチャネルを妨げていたおかげで通信ができなくなっていました。これは、電話線が切れたり、基地局 にトラブルがあったせいで電話が不通になっていたようなものです。私たちと神の両方の働きによって、電話は復旧し使えるようになりました。しかし、私たちが「電話をかける」という能動的な行動を取らない限りコミュニケーションは成り立ちません。
そして、神とのコミュニケーションのための実践が「祈りと黙想」なのです。
無限の神ふたたび
全知にして全能である神から強さ(strength)、霊感(inspiration)、導き(direction=指示)を受けることについては、もうすでに多くのことが述べられてきた。1)
祈りという題材がいきなりステップ11で登場したわけではありません。私たちはすでにステップ3以降で神に何かを頼み(ask)、その結果を受け取ることを繰り返してきました。ビッグブックには祈りによって様々なものを神から受け取るという説明がたくさんあります。3)
12ステップについて本を読んだり、話を聞いているだけの人のなかには、ここで神を全知全能と表現していることに抵抗を感じる人もいるでしょう。ステップ2では自分なりの神の概念を持てば十分だとされており、有限な神の概念を選ぶこともできました。だから、自分のスポンサーやホームグループを自分のハイヤーパワーとして選ぶこともできましたし、『12のステップと12の伝統』では「AAそのものをハイヤーパワーの代用品として使っても良い」と明言しています(第77回・第106回)。
しかしそれは、スタート地点に着くためのものであり、最初の一歩を踏み出すための考え方にすぎません。いずれそのような限定的な神の概念では先へ進めないときがやってきます。そのことについては恐れの棚卸しの回(第106回)で説明しました。
例えば、スポンサーやホームグループを神と見立てて、何らかの応えを期待して祈ることは難しいでしょう。逆に言えば、応えを求めて祈り始めたとき、その人の神の概念はスポンサーやAAそのものから、別の何かへと変化を始めたということです。もうその人は、スポンサーやAAを神の代用品とはしなくなっているのです。
このように実際にステップに取り組んでいけば、その人の神の概念は変わっていかざるを得ません。「無限の存在」に対して最初の頃に感じていた不愉快さや抵抗感は消えていきます。第四章に「とうてい手の届かないものにしか思えなかった多くのことが、受け入れられるようになった自分に気づくようになる」(p.69)とあったように、かつて持っていた霊的なことに対する偏見が自分の中から取り除かれていることを知るでしょう。
このことは、ステップに取り組む誰もが無限なる神の概念を持つようになるという意味ではありません。それを受け入れる余地がその人のなかに産まれていくことを意味しているのです。
神意識と第六感
ある程度まで、私たちは神を意識(God-conscious)している。
大切な直感を発達させこの極めて重要な第六感(vital sixth sense)を伸ばし 始めているのだ。しかしもっと先へ進まなくてはならない。4)
付録Ⅱの「霊的体験」に、神意識(God-consciousness)という言葉が二回出てきます(pp. 266/570, 267/571)。それは、「いま神がここにいるという思い(the consciousness of the Presence of God)」、すなわち神の臨在を意識することです(p.74, 第81回)。5)
第六感 (sixth sense)とは、ここでは祈りと黙想によって神の意志を受け取る能力のことです。それは五感 (視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚など人間の感覚全体)を越えたものです。私たちは五感を通じて外の世界から情報を得ています。そうやって得られた情報と自分の論理的な推論の力(=理性)を使ってものを考え、自分の行動を決定しています。問題なのは、五感から得られる情報にも、私たちの思考能力にも明らかな限界があることです(第85回)。第四章でそのことを指摘されてもピンとこなかった人も、これまでのステップを通じて自分の不完全さや限界を十分に意識できたはずです。
つまり、私たち人間が不完全であり限界があるというのは、言い方を変えれば、私たちの知識や論理的思考に限界があるということなのです。私たちには人生のすべての状況に対応できるだけの知識や力が備わっていません。なのに私たちはあくまで自分の考えを頼って生きてきました。それが私たちの様々な失敗の原因だったのです。
12ステップでは別の生き方を手に入れていきます。古い考え、すなわち「自分の問題は自分で解決できる」という考えを捨て、新しい考え、すなわち「神を頼ればうまくいく」という考えを採用します(p.77, 第83回)。私たちの一番奥深いところに存在する神は全知にして全能であり、私たちのこれからの未来にやって来るであろうあらゆる状況に対して、それに対処するための知識と力を備えています。その知識と力を私たちが利用できれば、これからの未来に起こるあらゆることを扱っていけるでしょう。そのために必要な実践は太古の昔から世界中の民族、文化の中で行われてきました。それが祈りと黙想です。6)
第六感が不可欠(vital)だというのは、それを欠けば私たちは生活に大変不自由するという意味です。例えば五感のうち一つが欠けただけでもとても不自由します。目が不自由な人や耳が不自由な人は、そうした障害を持たない人に比べるとたいへんな苦労をしています。私たちが第六感を使わずに生きるというのも、同じぐらい不自由なことなのです。
祈りと黙想
・・・すなわち、さらに行動することなのだ。
第十一ステップは、祈りと黙想について提案している。この祈りという主題について、尻込みしてはならない。・・・この課題をあいまいにしてしまうのはたやすい。だが、実は私たちは幾つかの
決定的で、貴重な具体的で価値ある 提案ができると思う。4)
ジョー・マキューも書いていますが、どうもビル・Wはアルコホーリクに対して祈りと黙想を勧めるのを躊躇しているように思えます。7) 他のステップでは、このステップをやらないと飲んでしまうぞと脅したり、何のためにステップをやっているのか思い出せと叱咤してきたのに、ここに来て急にトーンダウンしてしまうのです。それも無理のないことで、人類には祈りと黙想について何千年もの歴史の積み重ねがあるのに、ビルは不可知論者として回復を始めてからビッグブックを書くまでわずか4年しか経っておらず、彼自身も霊的な進歩の途中であったゆえに、祈りと黙想についてシンプルな提案を書くことしかできなかったのだと思われます。だがむしろそのことが私たちには好都合だと言えます。なぜなら、彼のシンプルな提案はこれまで祈りや黙想に馴染みのなかった者にも取り組みやすいからです。
123ページの終わりから、第六章の終わりまで、3ページあまりに渡って、祈りと黙想についてのいくつかの提案が書かれています(提案の数を何個と数えるかは諸説ある)。順番に見ていきましょう。
夜、眠りにつく前に
夜、眠りにつく前に、その日のことを建設的に振り返ってみる。恨みがましく、自分勝手(selfish=利己的)で、不正直ではなかったか、恐れていなかったか。謝らなくてはならない人はいないか。誰かとすぐに話し合うべきだったことをまだ自分だけに留めてはいないか。・・・8)
最初の提案は、夜眠りに就く前に行う一日の振り返り(review)です。これはステップ10の棚卸しのことだと考える人もいますが、前回説明したようにステップ10で最も重要なのは一日の中で随時行う棚卸し(スポットチェック)です。しかしそれは仕事や家事の合間に時間を見つけて行うことですから、深く考えるだけの時間が取れないこともしばしばです。そこで、一日の終わりにまとまった時間を取り、一日の中で行った棚卸しを思い出して再検討(review)する、というのがこの提案の主旨です。
心配や後悔、憂うつ(morbid=不健全)な考え(reflection=省察・反省)のほうに流されないよう注意しなくてはならない。人の役に立つことができなくなるからだ。一日を振り返ったあと、神にゆるしを乞い、正すためにはどうすればいいのかを尋ねる。9)
大事なことは、その振り返りを建設的に(constructively)行うことです。後悔や憂鬱や不健全な反省とは、今日の自分はあんな失敗やこんな失敗をしたとクヨクヨ思い悩むことです。それは完全でない自分を責めているのです。自分の不完全性を受け入れることが、このプログラムの要点であることを思い起こしましょう。私たちは、日々、大なり小なり様々な失敗を繰り返していく存在であり、完璧な存在にはなれません。失敗は直視しなりませんが、不健全に反省する必要はありません。神に許しを請い、あとは思い悩まずに寝ることにしましょう。
朝目が覚めたら
朝目が覚めたら、自分の目の前にある二十四時間のことを考えよう。その日の計画を立てる。取りかかる前に、神に私たちの考えに導きを与えて(direct our thinking)くださるように・・求める(ask)。9)
二番目の提案は、朝起きてすぐに行う祈りと黙想です。その目的はその日一日の計画を建てることで、これを「24時間プラン」と呼びます。その要点は神の導きを得ながら一日の計画を立てることです。
誰でも一日を始める前に様々な準備を行うでしょう。例えば寝ているときに着ていたパジャマのまま外出する人はおらず、着替えをします。顔を洗ったり、ひげを剃ったり、化粧をする人もいるでしょう。朝食を摂ったり、歯を磨いたりするでしょうし、ゴミを出したり、ガソリンの残量をチェックする人もいるでしょう。これらはすべて物質的・社会的な次元(右図の黄色い部分)のことですが、一日の活動を始める前にこうした準備をすることが大事だということは誰でも知っています。なぜなら、パジャマのまま外出したり、ゴミを出さなかったり、ガソリンが減っても気にしない生活を続けていれば、いずれトラブルに見舞われることは確実だからです。
霊的な次元のことについても、同じように準備をしてから一日の活動を始めることが大切です。自分の一日の活動を神の意志に沿ったものにするために、神に自分の考えを導いてくれるように祈り、それから一日の計画を考えます。多くの人は霊的な次元での準備をしないまま一日の活動を始めてしまうので、物質的・社会的次元の準備を疎かにする人と同じように、一日の中でトラブルに見舞われることになります。
ここでも「とりわけそれが自己れんびん、不正直、利己主義といったことから切り離されるよう」ようにお願いしています。朝から思い悩んでも良いことは一つもないのですから、これは大事なことです。
決められないとき
その日のことを思ううちに、決められないこと(indecision)にぶつかるかもしれない。どうしたものか決心できないかもしれない。そんなとき、私たちは霊感(inspiration)や直感的な考え(intuitive thought)、あるいは決断(decision)を与えてくださいと神に祈る。それから気を楽にする。もがいたりしない。10)
私たちは決断が必要なのに、決断できない状態(indecision=優柔不断)に陥ることがあります。ビッグブックのこの段落は、朝の黙想の中で一日の計画を立てている時について述べていますが、それだけでなく、一日を過ごしていく中でも決断できない状態が訪れることもあります。いずれにせよそれは情報不足が原因であることが多いでしょう。例えば僕の場合、鍋を焦がしてしまったときの対処方法を知りません。だから妻や知り合いに「鍋を焦がしちゃったんだけど、どうすればいいか知ってる?」と聞いたり、ネットで検索したり、図書館で調べるなどの手段で情報を集めます。そうやって判断材料や解決方法についての情報を集めれば、決断できない状態から脱することができます。情報が足りないのに、いつまでも悩み続けているのは無駄なことです。自分の頭の中に十分な情報がないのに、悩めば(=考えれば)いつかは決断できると思って悩み続けるのは、自己中心的で愚かなやり方です。
しかしながら必要な情報が集まらないこともあります。その場合には、私たちは決断できない状態から脱することができません。例えば、同じぐらい魅力的な二人から結婚を迫られたとしたら、どちらを選ぶことも簡単にはできないでしょう(僕は幸いそのような困難にぶちあたったことはありませんが)。また、唯一示された解決が自分が最も避けたいものだというだという場合もあります(例えば、アル中は酒をやめるという選択を最後まで選ぼうとしません)。情報を集めたくても、そのための時間や手段が無いこともあります。そんな時に私たちは、ひたすら悩んでしまったり、パニックに陥ったりします。こうした場合でも、決断に必要な情報が手元にないのですから、やはり思い悩むのは自己中心的で愚かなことです。
そんな時は、インスピレーション(霊感)や直感あるいは決断を与えてくださいと神に祈れ、とビッグブックは言っています。そしてリラックスして、神の導きを待てば良いというのです。そうすれば神は霊感や直感や決断を与えて私たちを導いてくれるというのです。
この方法をしばらくやってみた後で、正しい答えが得られることに、私たちはよくびっくりする。かつては直感(hunch=直観)とか虫の知らせ(inspiration)とか、自分には縁の薄かったものが、次第に心のなかで大きな流れになってくる。11)
かつての私たちは延々悩み抜いてようやく決断を下していました。その後も、あの決断は間違っていたのではないか、という心配や後悔を抱え続けたこともしばしばありました(第112回)。今や私たちは悩むことを放棄し、神の導きに従って決断を下すことができるようになりました。その方が良い結果がもたらされるということには、本当に驚かされます。おそらく私たち人間の頭脳は「長く悩めばそのぶん良い結論が導き出せる」ようにはできていないのでしょう。
まだ経験不足で、神との意識的接触を始めて日が浅ければ、いつも霊感が得られるというわけにはいかないだろう。そこをうっかりしないようにしないと、いろいろなばかげた行動や考えに走ることになるかもしれない。ではあるが、私たちの考え方は時間と共に、霊感(inspiration)に基づいたものになっていく。それを頼りにするようになっていく。11)
インスピレーション(直観)を通して導きを得るには、訓練と習熟が必要です。始めて間もなければ、神から与えられたインスピレーションだと思ったものが、単なる我欲の反映であることもしばしばでしょう。ビル・Wは『12のステップと12の伝統』で、
霊的に高度な進歩を遂げた人たちは、ほとんど例外なく、「神から導きを受けたと感じたら、それを友人か宗教的な助言者(spiritual advisor)と一緒によく考えてみるべきだ」と主張している。12)
と述べています。特に黙想の初心者にとってはこれは重要なことで、「他人の意見や助言は、絶対に正しいとは言えないが、ハイヤー・パワーから直接受ける導きよりもずっと具体的」だとも述べています。
理性を超えたもの
第四章の71~80ページでは、人間の持つ理性の限界について述べていました(第80回~第86回)。人間の持っている理性の力、それを支える論理的な推論の能力、理性によってもたらされる道徳、これらすべてには限界があります。その限界の範囲内で使えば、これらはどれも役に立ちます。だから、私たちが教育を受けたり、学んだり、道徳心を養ったりすることには意味があります。
12ステップは理性や知能や論理を否定しているのではなく、それらの価値を十分に認め、それらを頼りながらも、同時に理性(・知能・論理)の限界を強く意識することを要求します。その限界を無視して、どんなことも理性によって解決しようとするのは、理性の過剰使用(overuse)や誤用(abuse)でしかありません。
では、理性を超えたことはどう扱えば良いのでしょうか? 自分の手に余ることは、神にゆだねるというのが、12ステップの根本的な原理の一つです。自分では判断できないことは、神から与えられる直観に従っていくしかありません。
第85回で説明した、人間の論理的思考よりも、神から与えられる直観(真の知性)を上位に置くという考えが12ステップの根底にあります。その実践が、朝の祈りと黙想であり、決断できないときに直観に頼るというやり方なのです。
朝(あるいは一日のなかでいつでも)黙想と祈りによって神の意志を求めるのは、オックスフォード・グループで行われていた「静かな時間(quiet time)」という霊的な実践がAAに受け継がれたものです。神と一対一で対話して導きを求めるというやり方は、おそらく非常に古くからあったものでしょう。ただ、静かな時間と呼ばれるようになったのは19世紀後半で、20世紀になって主にプロテスタント の間で広まりました。それまでの実践が請願の祈りに重きを置いていたのに対し、神に耳を傾ける黙想に重点が置かれていること、得た導きを他の人と話し合うという点が特徴的です。オックスフォード・グループでも盛んに行われていましたが、そこでは経験の浅い人が得た導きについて経験の長い人が指導を行っていました。これは、先ほど述べたように初心者は自分に都合の良い導きを得がちだという事情によるのでしょうが、オックスフォード・グループのなかでアルコホーリクは常に「指導される」立場であったことや、後には通常のミーティングのなかにも持ち込まれて「集団指導」が行われたこと対する反発がアルコホーリクや妻たちの不満をもたらし、それがAAの分離独立につながりました。そのこともあって、AAのなかでは集団で祈りと黙想を行う場合に、得た導きが分かち合われることはあっても、それを他者が論評することは避けられています。(cf. 付録B1「オックスフォード・グループからの分離」、出典についても同ページを参照)
知的なプライドが高い人たちには、自分の知能より優れたものがあるという考えには抵抗があるでしょう。道徳的な自負心の強い人は、自分の道徳に限界があるのを認めることは屈辱を感じるかも知れません。けれど12ステップを通じて自分の限界を意識できるようになった人ならば、理性に依存するのをやめ、神を頼る準備はできているはずです。
祈り
125ページの真ん中から次の126ページにかけて、祈りについていくつかのことが提案されています。列挙すると:
-
- 朝の黙想の終わりに「私が何をするべきかを一日を通じて示してください」と祈る
- 家族と一緒に祈る(ただし無理強いしてはいけない)
- 世の中の宗教が用いている祈りのうち、これまでの説明と矛盾しない祈りを選んで使う
- 一日の中で、自分が動揺したり迷った時に祈る
このなかで、125ページの「自分のためだけには祈らない(make no request for ourselves only)」という一節についての質問をしばしばいただくので、ジョーの説明を引いておきます:
私は長いあいだ効果的な祈りができなかったが、その理由がわからなかった。その後、私は神の導きを求めるのでなく、サンタクロースヘ書く手紙と同じようなお願いをしていたから効果がないことがわかった。私はいつも「神さま、これをしてください」、「神さま、あれをしてください」と祈っていたのである。ときおり、私の祈りには答えが与えられたが、私はなかなかそれに気づかなかった。・・・
祈りをシンプルにして、神の導きとそれを実践する力だけを求める。そして、一日を通して神の導きを知り、それを実践していくと、日ごとに神が私たちのなかではたらいていることがわかるようになる。13)
「自分のために祈ってはいけない」と得意げに話す人もいますが、ビッグブックの言っていることはそういう意味ではありません。祈りと黙想は、神とのコミュニケーションの手段です。祈りは私たちが神に向かって語りかけることであり、黙想は神が私たちに伝えたいことを受け取ることです。電話の送話器と受話器のようなものです。私たちはステップ3で、神を指揮者とし、神の指示を受け取って行動すると決めました(p.90)。だから私たちはステップ11で祈りと黙想によって神の意志を受け取ろうとしています。「ああしてくれ」「こうしてくれ」と指示を出すのは神がすることであって、私たちの側からすることではありません。
私たちはこれまでのステップで、前進するのに必要なものを神に願い(ask)、そのたびに必要なものが与えられ、前に進んできました。その意味では、私たちは常に「自分のために」祈ってきましたし、これからもそれを続けていくでしょう。そして、ステップ11で私たちのために必要なのは神の意志、すなわち指示(direction)や導き(guidance)を受け取ることです。だから今回も私のために与えてくださいと祈るのです。
自分の本能(欲求)を満たしてくださいと祈る必要はもうないことを、私たちは知っています。ステップ3の決心をするときに、「私たちが神から離れず、神の働きに従って行動した時、神は私たちが必要なものを与えてくださった」(p.91)という文章を読んでも、それはたんなる情報にすぎませんでしたが、いまやそれは経験となりました。おそらく神は私たちが何を望んでいるかにはまったく関心はありませんが、私たちに何が必要かは知っています。
これはうまくいく(It works)
祈りと黙想によって、私たちには神の意志だけでなく、それを実行する力も与えられます。ジョーの語りを聞いてみましょう:
私が思うに、私たちがこの地上に置かれたのは、神に目的があったからだろう。そして思うに、私たちがいちばん幸せで、もっとも効率よくあるときとは、神から望まれていることを行っているときだろう。では、神は私たち一人ひとりに何を望むだろうか。それは私たちをここに置いた神だけが知っている。そして、私たちが自我(self-will=自己意志)を使い果たすまでは、神はその望みのために私たちを使うことができない。しかし、私たちに神の導きがわかれば、神から望まれたことを実践することができ、そのことで私たちは幸せになる。他人の幸せに必要なものが自分の幸せに必要だということはない。自分に必要なのは、神の導きとそれを成し遂げるカであることを、私たちは知るようになる。14)
私たちは、一人ひとりが特定の目的に仕え、特定の「仕事」を行うためにこの地球に生まれてきた。それが神の私たちに対する意志である。
その仕事が何であるかは、私たちの内側に秘められている。私たちは覚悟を決める必要がある。この地球にいるあいだにその仕事を行うか、それとも、自分自身のことだけにかかわる生き方をするかである。私のこれまでの経験によれば、人間にとってもっとも幸福な時とは、自分の仕事が何であるかを見つけ、それを実行し始める時である。神の意図に沿おうとしている時には、気持ちも、能力も、生き方もより良いものになるだろう。15)
酒を飲んでいた頃の僕は、人生の目的について思い悩んでいました。人は何のために生きるのでしょうか? 辛いことばかりの人生に何の意味があるのでしょう? 自分は不幸だと思っていたので、不幸な人間が犯しがちな過ちを犯しました。幸せそうな人が持っているものを自分も手にできれば幸せになれると思ったのです。だが何を手に入れても、その喜びは一瞬にすぎず、生きる意味や自分が存在する意味が分かったわけではありません。AAで酒をやめても、相変わらず分からないままでした。
だがあるとき洞察が与えられました。それは何の変哲も無いAAミーティングでした。田舎の木造の教会の一室で、他の二人のメンバーとテーブルを囲んで、AAの本を読んで分かち合っていたときでした。突然、「お前は人生の目的や意味を考えれば分かると思っているだろう?」という考えが浮かんできました。ああそうか、人生の目的や意味を知ろうと、たくさん本を読んだり、人の話を聞いたりして、思い悩んできたけれど、自分に分かるはずがなかったのです。それは、僕をこの地上に置いた神だけが知っていることです。それを「考えれば分かる」と思うのは、自分が神に等しい知力を持っているという思い上がりに過ぎなかったのです。
その洞察を得ると同時に、僕の人生には意味も目的もあるという確信が生れました。だがその中身を僕が知る必要はありません。人生には不幸なことや自分が望んでいない嫌なこともたくさん起きますが、それにも意味や目的はあるはずです。それまでの自分は、その意味や目的を自分が理解できないことに不満を高めていたのですが、それも一つの傲慢にすぎなかったのです。
僕が知らなければならないのは、この地上に生きている間に――特に今日という一日に――僕が何をすべきかということです。
その洞察をミーティングで分かち合った後、帰り支度をしていると、参加していたメンバーの一人が僕に話しかけてきて、「ひいらぎ、それなら神と個人的な付き合いを求めた方が良いよ」と言ってくれました。
それがステップ11を指しているのだと理解できたのは何年も後になってからでした。霊的な目覚めが起きて、神の実在を経験できたとしても、祈りと黙想を通じてその神と交流しなかったならば、その霊的体験は何の意味も持ちません。それは不通だった電話が復旧したのに、その電話を使わないでいるのと同じです。停電が復旧したのにブレーカーを落としっぱなしで真っ暗な家の中で暮らしているようなものです。与えられた第六感を使わないで生きるとはそういうものです。
導きを求めて祈り、静かに考えるとき、必要な洞察は与えられます。それに従って行動するエネルギーも同時に与えられます。祈りは神に届き、神は黙想のなかで応えてくれます。大事なことは、与えられた導きや指示に従って行動してみることです。よく使われる例えですが、船が止まっていたのでは舵は役に立ちません。導き(舵)が効果を持つのは、私たちがオール(櫂)を漕いで船を進めているときだけです。実行してこそ、それが神の導きなのか、我欲の反映なのかも区別できます。正しいかどうかは、結果で判断するしかありません(プラグマティズム ・第80回)。なのに、これが神の意志なのか、それとも自分の意志なのかと悩み続けるだけで行いを伴わない人もまた多いのです。
ステップ12へ
一にも行動、二にも行動。「行動のない信仰は死」なのだ。次章はすべて十二番目のステップについてである。16)
これで第六章が終わります。次の第七章はすべてステップ12についてです。ステップ12には「これらのステップを経た結果、私たちは霊的に目覚め」とありますが、これはステップ11までに霊的な目覚めが起きていることを示しています。なので第七章には霊的目覚めや霊的体験についての説明はありません。その説明はすでに第五章と第六章で済んでいます。
また、「私たちのすべてのことにこの原理を実行しようと努力した」の部分にも説明は要らないでしょう。なぜなら、それについても第五章と第六章に説明があったからです。私たちには何らかの力が神から与えられています。例えば考える力(知力)です。私たちがその力を使って成功体験を得ると、そこから「こうすればよい」という信念を身に付けます。その信念が通用する範囲ではあれば、私たちは大いにその「自分の考え」を使っていけば良いのです。問題が起こるのは、環境や自分自身が変化してその信念が通用しなくなっているのに、過去の成功体験に引きずられ、プライドが邪魔してその信念が捨てられなくなっていることです。すると私たちの考えも行動も変化(成長)しなくなってしまいます(第102回)。そこで私たちは棚卸しを通じて「役に立たなくなった信念」をあぶりだし、自分の間違いを認め、その信念を捨てて新しいものを身に付ける努力をします。
いまの時代の特徴とは、古い考えを捨てて新しいものを取り入れることに抵抗がなく、要らなくなった理論や道具の代わりに、使いやすい有効に働くものを無理なく取り入れることができることではないだろうか。・・・この時代の特徴を、私たちが抱えている人生の問題にあてはめてみたらどうだろう・・・17)
また、神から与えられた力では及ばないことに関しては、祈りと黙想を通じて神の導きを得て、それに従って行動し、結果で判断します。過去の成功体験がもたらす信念であれ、神から与えられた導きであれ、どちらも実践してみた結果でその正しさを判断するというのが、12ステップの根底にあるプラグマティズムの考え方です(第80回)。ビル・Wが、AAの真の創始者は(プラグマティズムを提唱した)ウィリアム・ジェームズだと主張するゆえんです。18)
ニューソートはいくつものキリスト教系新宗教を生み出しました(e.g. クリスチャン・サイエンス 、キリスト教系ではないが日本の生長の家 もその一つに数えられる)。さらにニューソートから宗教的な要素を取り除いて成立したものとしては、自己啓発 (セルフヘルプ)、成功哲学 、ポジティブ・シンキング 、ニューエイジ 、引き寄せの法則 などが挙げられます。どれも現在の日本の書店で平積みになるジャンルばかりです。もちろん、現在のカルト 宗教にも影響を与えています。
12ステップの源流を知ることでその本質に迫ろうと、オックスフォード・グループやカール・ユングやウィリアム・ジェームズについて調べて学ぶ人はいますが、ニューソートについて学ぼうという人はあまりいません。僕自身も手が着いていませんが、興味深い分野だと思います。ただ、それについて学ぶときには新宗教や成功哲学の本に手を出すのではなく(それらは後に成立したものだから)、ニューソートの思想家たちの本を読むべきでしょう。潮流全体を概観できる本として、『ニューソート その系譜と現代的意義』(日本教文社)を紹介しておきます。21)
次回はステップ12です。
- 神との間の障害物が取り除かれ、霊的な目覚めを得たとしても、神の意志を受け取るには私たちの能動的な行動(祈りと黙想)が必要。
- 第六感を使わずに生きることは、五感の一つを欠いて生きるのと同じぐらい大変だと言える。
- 祈りは神に向かって語りかけることであり、黙想は神の意志を受け取ること。
- 私たちは常に自分のために祈るが、自分の本能を満たしてくださいと祈る必要はない。
- 祈りと黙想には、人間の思考よりも神から与えられた直観を上位に置くという考えが根底にある。
- 大切なのは、与えられた導きや指示に従って行動してみること。
- それが真理かどうかは、結果でしか判断することができない。
- 12ステップの根底にはプラグマティズムの考え方がある。
- BB, p.123.[↩][↩]
- 12&12, pp.134-135, 143.[↩]
- ワリー・Pによれば、そういった記述は少なくとも27ヶ所あるという。 — Wally P., Back to the Basics of Recovery[, Faith with Works Pub., 2016, p. p.62.[↩]
- BB, p.123 — 日本語翻訳第四版での変更を追記した。[↩][↩]
- 第一章でも、ビルがステップ11相当部分で「新しくぼくが意識している神にすがって(by the new God-consciousness-within)」と表現している。[↩]
- BBCA, p.150.[↩]
- CTM, p.145.[↩]
- BB, pp.123-124.[↩]
- BB, p.124.[↩][↩]
- BB, pp.124-125.[↩]
- BB, p.125.[↩][↩]
- 12&12, p.81.[↩]
- CTM, pp.151-152.[↩]
- SWT, p.154.[↩]
- CTM, pp.173-174.[↩]
- BB, pp.126-127.[↩]
- BB, p.76.[↩]
- PIO, p.124. またアーネスト・カーツは『アルコホーリクス・アノニマスの歴史――酒を手ばなした人びとをむすぶ』, 明石書店, 2020 のなかでジェームズがAAに与えた影響について繰り返し述べている。[↩]
- DBGO, pp.221, 454.[↩]
- カーツ, p.50.[↩]
- マーチン・A・ラーソン(高橋和夫他訳)『ニューソート―その系譜と現代的意義』, 日本教文社, 1990.[↩]
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