アルコホーリクス・アノニマスの共同体
ビル・W — 1949年5月ケベック州モントリオールにて開かれたアメリカ精神医学会第105回年次総会で行われた講演から1)
アメリカ精神医学会に出席するようにアルコホーリクス・アノニマスを招待いただいたこと感謝します。これは何よりも幸福なことです。素人である私たちはストーリーを語るほかにありませんが、この物語は極めて個人的な、かつ非科学的な性格を帯びています。その深い意味合いが何であれ、アルコホーリクス・アノニマスの形成につながった動向や出来事を簡単に描き出すことにします。
(ここで講演者は、ソブラエティ〔断酒〕を達成した彼自身の経験、初期の失敗続きだった他のアルコホーリクへの働きかけ、その結果として1935年の5月にオハイオ州アクロンでアルコホーリクス・アノニマスの共同創始者となるドクター・ボブ・Sとの出会いについて述べた)
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二人のアルコホーリクがキッチンテーブルを挟んで向かい合っていました。一人は酒を飲んでいましたが、もう一人は飲んでいませんでした。どちらも重度の慢性患者で、精神病院に収容される脅威が二人に迫っていました。時は1934年11月。飲んでいた方は、後に本稿の執筆者となりました。そして、しらふで私を訪問してきたのは、古くからの学友で、彼はすでに医師からも家族からも絶望的だと見放されていました。私も同じような評価を受けており、そのことをよく分かっていました。2)
友人は、彼がどのようにしてアルコホールから解放されたかを伝えに来たのでした。実際、彼の断酒の質は「並外れている」ように感じられました。友人は宗派を超えた福音伝道活動であるオックスフォード・グループに接触しており、かつてカール・ユングの患者だったというアルコホーリクに出会って、特に大きな影響を受けていました。ユング博士はその患者を1年間治療しても成果を上げられず、とうとう最後の望みとして宗教的回心を得る努力をしてみるように助言していました。私のかつての学友はオックスフォード・グループの多くの教義には同意できなかったものの、ではあるにしても、彼が新しい断酒生活(ソブラエティ)を得られたのは、このアルコホーリクや他のオックスフォード・グループの人たちが教えてくれた幾つかの考え方のおかげであると捉えていました。私の友人が彼自身のために選んだ実践は次のようなシンプルなものでした:
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- 彼は自分の問題を解決する力が無いことを認めた。
- 彼はかつてないほど正直になって、良心の調査を行なった。
- 彼は自分の欠点を正確に告白した。
- 彼は他の人たちとの歪んだ関係を調べ、その人たちを訪ねて償いをした。
- 彼は個人的名声や物質的利益を求めずに困っている人を助けることに自分を捧げる決心をした。
- 黙想によって、彼の人生に対する神の指示と、常にこうした行動原理を実践できるように神の助けを求めた。
これは私にはずいぶん純真な考えのように思えました。であるものの、友人は福音を説くのではなく、彼の身に何が起きたかという率直な話だけをしていました。彼によれば、これらのシンプルな教えを実践することで、不思議と彼の飲酒が止まったというのです。恐れと孤独感が消え去り、少なからぬ心の平和を受け取ったというのです。厳しい訓練も要らなければ、たいへんな決心をしたわけでもなく、彼がその教えに従いだしたときに、こうした特質が現れ始めました。彼が〔アルコールから〕解放されたことは、副産物のようでした。まだ酒を止めて数ヶ月でしたが、彼は基本的な答えを持っていると感じていました。そして賢く議論を避け、いとまを告げて帰っていきました。この出来事が、やがてアルコホーリクス・アノニマスができあがる発火点でした。
その時、そのキッチンテーブルでは何が起きていたのでしょうか? おそらく、そのような推論は医学や宗教に任せたほうが良さそうです。正直なところ、私には分かりません。きっと、回心(conversion)というものは完全に理解はできないものなのでしょう。
そのような経験については、表面的に、このようなことが起きたように私には見えたということを忠実に述べることしかできません。ではあるものの、私の人生の流れを一瞬にして変えた何かが起こったのも確かなことです。私はそれ以来14年間酒を飲んでいません。それ以上のことは、単なる個人的な意見、あるいは単なる空想にすぎません。
友人の話は私に複雑な感情をもたらしました。私は引き寄せられたり、反発を感じたりを繰り返しました。私の孤独な飲酒はまだそれからも続きましたが、彼の訪問を忘れることはできませんでした。私の頭の中をいくつかのテーマが流れていました。第一に、彼が解放されている様子は、不思議であり、非常に説得力がありました。第二に、彼は有能な医師たちによって絶望的であると宣告されていました。第三に、こうした古くからある教えが、彼から伝えられたときに、大きな力で私の心を打ちました。第四に、私はどのような神の概念も受け入れることはできないし、この先もそうだろう。回心は私にとってはナンセンスなものでした。私は考えを他のことに逸らそうとしましたが、できませんでした。理解と、苦しみと、単純な真実の束を使って、一人のアルコホーリクが私の心を彼に釘付けにしました。私は逃れることができませんでした。
ある朝、ジンを飲んだ後、このような認識が沸いてきました。「お前は何者だ?」と私は自分に問いました。「良くなりたいと思わないのか? 物乞いが好き嫌いを言えるか?〔選んでいる余裕はない〕。もし医者がお前の苦しみの元凶がガンだと言ったとしたら、ポンズ・エクストラクト〔美容液〕に頼ったりしないだろう。大急ぎで医者に、そのいまいましいガン細胞を殺してくれと懇願するだろう。もし医者にはガンが止めらなくて、宗教的回心なら治せると思ったら、プライドなんかかなぐり捨てるだろう。他の犠牲者たちと一緒に人目の多い広場に立って「アーメン」と叫ぶことだってするだろう」 私は思案しました。「お前と、ガンの犠牲者と、何の違いがある?」 ガン患者の病んだ体が崩れていくように、私の人格も崩れていくだろう。お前の強迫観念は、お前を狂気か葬儀屋に引き渡してしまうだろう。友人のあの処方を試すか、試さないかだ」
もちろん、私は試しました。1934年の12月にニューヨークのタウンズ病院に入院しました。以前からの友人であるシルクワース博士が、首を振っていました。やがて鎮静剤とアルコールの効果が切れてくると、私はひどい鬱に見舞われました。あのアルコホーリクの友人がひょっこりやってきました。彼に会えてうれしかったのですが、私はかなり縮み上がりました。伝道が始まるのではと恐れたのですが、彼はそんな話は一切しませんでした。少し世間話をした後で、私のほうからオックスフォード・グループについてもう一度教えてくれと頼みました。彼はまったくプレッシャーをかけずに、静かに落ち着いて教えてくれました。そして彼は帰っていきました。
葛藤のなかで横たわっていた私は、真っ黒な絶望に落ち込みました。瞬間的に私の高慢な頑固さが砕け散り、私は叫んでいました。「あの友人が持っているものを受け取るためだったら、私は何でもする、何でもするから」 何も期待はしていませんでしたが、私は必死で訴えました。「もし神が存在するのなら、姿を見せてくれ!」 結果は瞬時に現れ、それは説明できないほど電撃的なものでした。その場所が白い光で目がくらむほど明るく照らされました。私は恍惚となり、山の頂に立っているように感じました。大きな風が私を包み込み、体を通り抜けていきました。それは空気ではなく、スピリットでした。燃え上がるように大きな考えが湧いてきました。「お前は解放されたのだ」 すると恍惚感は静まっていきました。私はベッドにいたままでしたが、その「存在」によって満たされた別の意識の世界にいました。宇宙と一体になり、私の上に大きな平和が訪れました。「これが宣教師たちの言う神、偉大なる実在なのだろう」と思いました。だがすぐに理性が戻ってきて、私が受けた現代的な教育が優位になりました。私は狂ってしまったのに違いない。私はひどく怯えました。
シルクワース博士が私のところにやってきて、私が先ほどの現象を震えながら話すのを聞きました。彼は私が狂ってはいないと断言し、おそらく私の得たこの経験が私の問題を解決してくれるだろうと言いました。科学の徒として懐疑論者だった彼にしてみれば、これは最大限親切で、明敏な言葉でした。もし彼が「それは幻覚だ」と言っていたとしたら、おそらく私はもう死んでいたでしょう。彼には永遠に感謝しなければなりません。
幸運はさらに続きました。誰か『宗教的経験の諸相』という題のついた本を持ってきたので、私はそれを貪るように読みました。心理学者の〔ウィリアム・〕ジェームズによって書かれたこの本は、回心が客観的実在性を持ちうることを示唆しています。回心の体験は、人の動機は変わらぬままに、半自動的に以前のその人には不可能だったあり方と行いを可能にするのです。ここで重要なのは、明白な回心の体験の大部分は、主要な領域において完全な敗北を経た人に起きているということでした。確かにこの本はそうした経験が多様であることを示しているものの、それが明るいものであれ、暗いものであれ、あるいは大変動であれ、穏やかものであれ、あるいは神学的なものであれ、理知的なものであれ、そうした回心には共通の特徴がありました。それはそうした経験は敗北した人々を完全に変えてしまうことです。ウィリアム・ジェームズがそう宣言しました。その靴は私にぴったり合ったので、それ以来、私はその靴を履くように努めています。酔っ払いにとっては、深層での収縮――あるいはそれ以上の何か――が答えであることは明らかでした。それは極めて明白であるように思えました。私はエンジニアとしての教育を受けましたから、この権威ある心理学者からの情報は極めて重要でした。
私は純然たる信念で武装し、それを私の性格である権力志向(パワードライブ)で強化して、アルコホーリク全員を治すために飛び立ちました。それは双発のジェットエンジンで、困難など私には何の意味もありませんでした。それがうぬぼれた計画だなんて、まったく思いもしませんでした。私は6ヶ月間突撃を続け、家はアルコホーリクで溢れかえりました。何十人も相手に大演説をぶっても、何の成果も得られませんでした。誰も耳を貸しませんでした。残念なことに、キッチンテーブルで話をしてくれた友人は、私が思っていたより病気が深く、こうした他のアルコホーリクには関心を持ってくれませんでした。その事実が、彼がその後ひたすら再発を繰り返した原因になったのかもしれません。それでも、私がアルコホーリクに働きかけることは、私自身の断酒(ソブラエティ)に大きな効果があることを発見しました。しかし、私の候補生たちが誰も酒をやめてくれないのは、どうしてでしょうか?
ゆっくりと難点が明らかになってきました。私は宗教狂いになったかのように、誰もが自分のような「霊的体験」をしなければならない、という考えに取り憑かれていました。そうした体験が実に多様であることを忘れていました。だから私の仲間であるアルコホーリクたちは、私の「ホットフラッシュ」の話を聞くやいなや、あっけにとられるか、私をからかいだすのでした。そのせいで、私が彼らに近づくために必要な、同じだという効果的な認識(identification)はおおいに損なわれてしまいました。私は福音伝道者になってしまっており、明らかにもっと無駄のないやり方に変える必要がありました。私には6分で十分だったものが、他の人には6ヶ月かかるということもあり得ます。言葉も目標も、もっと慎重に選ばなくてはならない、という教訓を得ました。この収縮をもたらす手法もうまくいっていませんでした。〔アルコホーリクを〕打ちのめす力が欠けていました。アルコホーリクにかけられた「呪い」あるいは強迫的衝動は奥深いレベルから出てきているに違いないのですから、エゴの収縮もまた深いレベルで起こらねばならず、そうでなければ根本的な解放は起こらないでしょう。アルコホーリクの内部で準備が整わない限り、宗教的な手法はアルコホーリクに効果をもたらさないのです。幸いなことに、必要なすべての道具は揃っていました。あながた医師がそれを提供してくれてあったのです。
強調するのを「罪(sin)」から、「病気(sickness)」へと——「死に至る病」であるアルコホリズムへと切り替えました。アルコホリズムは癌より致命的だという医師の言葉を引き合いに使いました。精神の強迫観念と、身体の過敏性の増大。この二つが狂気と死をもたらす双子の鬼なのです。私たちは、絶望的な状況が、どのようにしてその領域に至ったすべての飲んだくれに、衝撃的なひとさじを与えるのかというユング医師の意見を、夢中になって読み込みました。現代人にとって科学は全能であり、つまりそれが神だとも言えます。だからこそ、その科学がアルコホーリクに死の宣告をすれば、そして私たちがアルコホーリクにそれを伝えれば、その人の希望は完全に打ち砕かれるでしょう。するとおそらくその人は、今度は神学の神を頼るようになる。それ以外に道はないからです。このやり方の真実が何であれ、実用的なメリットがあったのは確かです。私たちの雰囲気はすぐに変わりました。状況は好転してゆきました。
当時破産していた私は、たまたまある投機的事業に加わりました。その結果、私はオハイオ州のアクロンに行くことになったのですが、その取引はすぐに破綻し、私はすっかり落胆しました。私は一人きりで、自分がまた飲んでしまうのではないかと恐ろしくなりました。気がつけば、あの1934年12月の経験以来、私は酒を飲むことを考えもしなかったのです。それまでなかったことです。私は自分の危機をはっきり認識し、そのおかげでいつもの合理化〔飲む言い訳〕を払いのけることができました。ほっとすると、欲求のスイッチが入ったことで、私のこれまでの霊的な訓練にも何かしら意味があったことを悟って安心しました。しかし、それが強迫的な飲酒欲求の高まりを抑えてくれたわけではありません。私は、すぐにでも他のアルコホーリクと話をする必要がありました。
まもなく、私は外科医ロバート・S博士を紹介されました。彼は重度のアルコホーリクでした。その時の私は説教を一切しませんでした。自分の経験と、アルコホリズムについて私が教えられたことを話しました。彼が私を必要とするのと同じぐらい、私も彼を必要としていたので、初めて真の相互関係が得られました。これによって私の説教をするやり方はお終いとなりました。お互いを必要とするというこの考えが、医学・宗教・私たちの経験を組み合わせた統合物としてのアルコホーリクス・アノニマスに、最後に付け加えられた構成要素なのです。そして、現在AAで私たちが言うように、彼もすぐに「うまくいって」二度と飲むことはありませんでした。これが1935年の6月のことでした。私たちはそれから、地元の病院で飲んだくれたちを相手に多くの時間を費やしました。その中の一人が酒をやめ、再発することなく現在でもしらふでいます。まだ名前がありませんでしたが、実質的に最初のAAグループがスタートしました。S博士はそれ以来アクロンで約4,000人に入院治療を施してきました。多くの人が回復しました。彼はそれによって1セントの金銭的見返りも受けていません。そして彼はアルコホーリクス・アノニマスの共同創始者となりました。私が1935年9月にアクロンを離れたとき、3人のアルコホーリクが酒をやめていました。ニューヨークに戻った私は同じことを始め、AAグループがもう一つできあがりました。ですが、私たちはまだ何も確信が持てず、盲目の飛行を続けていました。
しばらくすると、オックスフォード・グループから離脱しなければならなくなりました。この善良な人たちは私たちに賛同してくれませんでしたし。また私たちの目的にとって、オックスフォード・グループの持つ雰囲気はすべてが良いというわけにはいきませんでした。彼らの持つ絶対的な道徳的正しさへの要求は、〔私たちの〕罪悪感と反抗心をかき立てました。そのどちらもアルコホーリクに酒を飲ませ得るものですし、実際そうなりました。ノン・アルコホーリクの伝道者である彼らには、それが理解できなかったのです。これらの善良なる友人たち、彼らから私たちは多くの恩恵を受けました。私たちは彼らから何をすべきか、そして何をすべきでないかを学びました。
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私が1935年9月にアクロンを離れたとき、3人のアルコホーリクが酒をやめていました。ニューヨークに戻った私は同じことを始め、AAグループがもう一つできあがりました。ですが、私たちはまだ何も確信が持てず、盲目の飛行を続けていました。
それから3年間の試行錯誤の日々を経て、1939年に『アルコホーリクス・アノニマス』という私たちの教科書を出版しました。
いまや私たちAA共同体のバックボーンとなったその本は、まず飲酒と回復の典型的な物語から始まります。次に「解決はある」という希望の章があります。二つの章を使って、AA特有の用語であるアルコホリズムとアルコホーリクについて説明しています。その目的はもちろん、まず自分も同じだと思ってもらい、次に意気をくじくことです。不可知論者を軟化させることに一つの章を費やしています。次に、現在のアルコホーリクス・アノニマスの12ステップが登場します。私たちの治療法の核心であり、実践的な生き方であるこれらの「ステップ」は、あのキッチンテーブルの友人が列挙してくれた原理を、より増強し、かつより無駄をなくしたバージョンなのです。
テキストの残りの部分は、この12ステップの実践的な適用と、読者の内面の抵抗を減らすことに割かれています。他のアルコホーリクのために行動することが非常に重く強調されています。さらに、妻たち、家族関係、雇用者に向けた章があります。最終章では新しい共同体を描き出し、回復したアルコホーリクが自ら新しいグループを作るように願っています。このイデオロギーは、さらに30人の事例、というよりAAメンバーが書いた物語によって補強されています。これらは同一感を達成し、希望をかき立てます。『アルコホーリクス・アノニマス』の400ページには理論は含まれておらず、経験だけが語られています。
この本が1939年4月に世に出たときには、私たちにはおよそ100人のメンバーがいました。その三分の一は十分な断酒記録を持っていました。この運動はクリーブランドで広まり、そこからシカゴやデトロイトへと拡散しました。東部ではフィラデルフィアとワシントンに向かっていきました。クリーブランドでは素晴らしい出来事がありました。『プレイン・ディーラー』紙が私たちに関する強力な記事を掲載してくれ、それを社説で裏打ちしてくれました。嵐のように電話が20人のAAメンバーに降りかかってきました。そのほとんどが新人だったのですが。AAの本を手に、彼らはすべてのニューカマー〔新しい人たち〕に挑みました。新しいメンバーがもっと新しいメンバーに働きかけました。二年後、クリーブランドはこの連鎖反応によって数百人の新メンバーが集まっていました。打率は素晴らしく、これは私たちが膨大な人数〔メンバー数〕を急速に消化できるという最初の証拠になりました。
そして、全国的な素晴らしい広報が行われました:『サタディ・イブニング・ポスト』紙の記事(1941年3月)によって、何千もの必死の問い合わせがニューヨークの私たちの小さな事務所に押し寄せました。これによって、何百もの都市に住むアルコホーリクの一覧表ができました。すでにできあがったAAの中心地から旅をするビジネスマンたちが、そこに載った名前をたどって新しいグループを始めました。文献を送り、手紙をひんぱんに送ることで、郵便によって多くのAAグループが誕生しました。個人的な接触が何もないのに、これには驚かされました。聖職者や医療者が私たちを認め始めました。今日の議長であるハリー・ティーボウ博士は、私たちを観察して、友人になってくれた最初の精神科医でした。アルコホーリクス・アノニマスは急成長しました。開拓は終わり、私たちはアメリカの地図全体に広がりました。
(ここで講演者は、この共同体の1949年の規模(メンバー数約8万人、グループ数3千、30カ国)とその一般的な構成を要約した)
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1949年現在、私たちの量的な結果は以下の通りです。設立から14年を経たアルコホーリクス・アノニマスの共同体には、約3,000のグループに8万人のメンバーがいます。30の国とアメリカの海外領土に進出しており、翻訳も進んでいます。職業的にはアメリカの正確な断面図となっています。宗教的には約40%がカトリックで、残りは名目上あるいは実質的なプロテスタント、かつて不可知論者であった多くの人たち、少数のユダヤ教徒から成っています。10から15%は女性です。一部に黒人たちも特に困難なく回復しつつあります。医学および宗教のトップから普遍的な支持を受けています。AAのメンバー数構成はピラミッド型を示しており、チェーンスタイルで、毎年約30%の増加率となっています。1949年には、少なくとも2万人の恒久的な回復が見込まれます。最近では、これらの半数は中程度か軽度の症例(平均年齢36才)です。
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私たちの元に留まって真剣に取り組んだアルコホーリクのうち、50%〔かなりの割合〕はすぐに酒をやめて留まり続け、25%は〔その他も〕何回かの再発の後に酒をやめ、その他にも〔残りにも通常は〕改善が見られました。3)しかし、多くの問題飲酒者、おそらく5人中3人から4人が、短い接触の後にAAをやめていきました。その中には精神病質やダメージが大きすぎる人たちもいました。ではありますが、大多数の人たちは強力な自己正当化を抱えているのであり、それはやがて行き詰まります。実際のところ、その行き詰まりは最初の接触においてAAが「良い被曝」と呼ぶものによってもたらされるのです。アルコールという業火に焼かれ、彼らはたいてい数年以内に私たちの元に戻ってきます。彼らは「戻ってくるしかなかった」と言います。それがAAであれ他であれ。彼らはアルコホリズムについてアルコホーリクから学びました。それによって、自分で思っていたより強く打たれていたのです。そのようなケースは、私たちと接触した人たちのおよそ半分が最終的に戻ってきて、その多くが回復するという好ましい印象を私たちに与えてくれます。だから私たちは新しい人たちに〔私たちの考えを〕教え込むだけにしています。伝道はしません。その後はウィスキーに任せます。聖職者たちは、私たちが〔酒という〕悪魔を利用していると断言しています。そうした主張は考慮すべきでしょうが、彼らは保守的だと私たちは思います。最終的な回復率は、かつての予想よりずっと良いのです。
私たちの起源、中心となる治療思想、および量的な結果をざっとお話ししました。質的な結果を示すことは、この論文に手に余ります。
アルコホーリクス・アノニマスは宗教団体ではありませんし、何の教義もありません。神学的命題のひとつが「自分を越えた偉大な力」ですが、この概念でさえ、誰にも強制しません。新しい人は単にこの共同体に熱中し、できる限り〔12ステップ〕プログラムを試してみるだけです。それだけで、やがてその人は変容の体験がゆっくりと始まったことを報告するでしょう。それをその人が何と呼ぶかはともかく。かつてAAは宗教的影響を受けやすい人たちだけを惹きつけると評されていました。しかし、AAのメンバーには、アメリカ無神論者協会の元会員や、その人と同じぐらい頑固な約2万人の人たちが含まれているのです。死に瀕した人たちは、時にたいへんオープンマインドになりうるのです。もちろん、今日では私たちは回心についてほとんど話しません。なぜなら、とても多くの人たちが神に捕まることを本当に恐れているからです。しかし〔ウィリアム・〕ジェームズによって幅広く記述された回心こそが私たちの基本的なプロセスのようです。他のすべての仕掛けは土台作りに過ぎません。一人のアルコホーリクがもう一人のアルコホーリクに働きかけるとき、その人はこの本質的な体験を強化し、維持するのです。
私たちの共同体の構成と抑制において、無政府主義、民主主義、独裁の力が印象的な役割を果たしています。バーリコーン〔ウィスキーなどの蒸留酒を擬人化した言葉〕というきわめて非人格的な独裁者がいます。ヒトラーのゲシュタポでさえこの半分も効果的ではありませんでした。アルコホーリクの無政府状態がその暴君に直面するとき、そのアルコホーリクは社会的動物になるか滅びるかのどちらかしかありません。必然的に、私たちの共同体は最も純粋な種類の民主主義に落ち着きました。当たり前のことに、私たちのかなり神経質な共同体は途方もない爆発しやすさを抱えています。他のあらゆるところと同じで、権力・金銭・セックスという永遠の挑発者は、周りに密に人びとを惹きつけます。AAのあらゆるところで、こうした地中火山が毎日少なくとも1,000回は噴火しています。私たちは今では、そうした爆発を、少しユーモアとかなりの寛大さをもって眺めていますが、恐怖心を抱くことはまったくありません。私たちはそれを進歩のために必要な貴重な実地訓練だと考えています。私たちが関係性を深め、切迫した使命を果たし、人生を充足させていくためには、自らの神経症を軽減させる必要があります。これらすべてが、神と人への愛とともに、私たちを驚くべき団結の中に収容させているのです。数の多さは安全に繋がるようです。どれだけ多くのダイナマイトも覆えるだけの数の土嚢があります。私たちはかなり安全で幸せな家族であると思っています。どうぞ、AAのミーティングをのぞいてみてください。
むしろ、暴力的な神経症や酩酊、狂気がアルコホーリクス・アノニマスの定められた宿命であるという証拠はいささかもないのです。そのような暗い予測が実現したことはありません。
今や多くのアルコホーリクが、精神科医によってAAに送られてきます。そして飲酒から解放され、より扱いやすい対象となって医師のもとに戻っていきます。ほとんどの場合、アルコホーリクの妻たちは、かなりのところ、過干渉の母親役になります。ほとんどのアルコホーリクの女性は、夫がいるならば、困惑した父親役と暮らすことになります。このことは実に多くのトラブルをもたらします。私たちAAメンバーはそのことを知るべきです! この大きな問題は皆さんの専門領域でありましょう。結論として、私たちAAメンバーは、私たちがアルコール問題全体の一部に触れることしかできないことを意識するように努めています。私たちの急速な成功が、私たちに酔いをもたらしやすいことや、私たちの資源は常に限られていることを忘れないようにしています。ですから、医療の分野の皆さんは、私たちのパートナーになるでしょう。医師は見えないメスを上手に振るうでしょう。この分野で働く人には、私たちと共通の利害があるのではないでしょうか? 私たちはアルコホーリクス・アノニマスが医学と宗教の間の中立地帯にいて、両者の新たな統合の触媒になれることを望んでいます。それによって現在、暗闇の中で苦しむ何百万人もの人びとに、光をもたらすことになるのでしょうから!
この偉大なる医学の殿堂に出席されている皆さんの誰一人として、私がこのメッセージの締めくくりを、私たちの物言わぬパートナーである「宗教」のために捧げても、どなたもご不快には思われないだろうと確信しています。
神さま、私たちにお与えください。私たちに変えられないものを受け入れる落ち着きを、変えられるものを変えていく勇気を、そして二つのものを見分ける賢さを。
- William W., The Society of Alcoholics Anonymous — American Journal of Psychiatry 1949 106:5, 370-375 ― posted on Slikworth.org.[↩]
- 灰色のバッグラウンドは、AAパンフレットに収録される際に割愛・改変された箇所を示す。この部分が大きく省略されているのは、同じパンフレットに収録された「アルコホーリクス・アノニマス、その始まりと成長」と内容が重複しているためと思われる。[↩]
- パンフレットへの収録時に言葉が変更されている。50%→a large percent(かなりの割合)、25%→others〔その他〕、time→relapse(再発)、still others→remainder usually(残りにも通常は)。[↩]
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